「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
「ビショフスホーフェンを蹴っ飛ばしてねえ。そりゃあオーストリア人は怒るさ。チャンピオン来ねえんだから。でも最初から3戦で帰るという計画だった。兄貴(昌生コーチ)が『お前、残ってもいいぞ』と言ったけど、帰った。ずいぶん後まで言われたなあ。とんでもなく失礼な話だな、考えてみれば」 (8)「金野が一番だ、金メダルだ」 優勝候補として札幌五輪に臨んだが、金メダルを取りたい、などという意識はなかった。地元開催の大会で土地勘はばっちりあった。当時は警備も緩やかだった選手村からできたばかりの地下鉄に乗り、札幌市中心にあるなじみの食堂に行って、お昼を食べてビールを少し引っかけたこともあった。2月6日、初戦の70メートル級は1回目に84メートル(最長不倒)でトップに立ち、2回目は79メートルにまとめて快勝した。 「好きではなかったね、あの宮の森は。金野昭次さんが一番うまくて、次が青地さんかな。俺は全然欲がなかった。(1回目は)だから良かったんでないかい。うまくいったな、という感じ。でも優勝するとかという世界が出てくると駄目なのに(2回目は)がっちがちで、心をなだめるのに大変だった。で開き直ったんだ。金野が一番だ、金メダルだ、と」
現在の試合の進行では2回目は1回目の30位から29位、28位…と飛び、最後は1日目のトップが挑むが、当時は1回目、2回目とも同じ飛躍順だった。笠谷さんは日本勢4人のうち最後で、ゼッケン「45」が示すように45番目だった。金野さんのゼッケンは「5」だった。最初から5番目に飛ぶ金野さんは2回目を終えてトップの位置にいて、2回目が進んでもそれを追い越すような選手は現れなかった。だから笠谷さんは自分が失敗しても金野さんが優勝する可能性は高い、と考えた。 「俺がスタートする前に、分かっていた。記録を聞けば分かる。俺が飛ぶまで金野を上回る人がいないんだから。俺の後ろの人も強い人は1本目に転んだ。開き直れたのは金野さんのおかげ。そうでなかったら何が起こったか分からない。思い切りいったら、何とか持った。本当は82、83メートルは飛べたのに…。でも2本とも失敗しないで立っているのは不思議でね。誰のせいかと思ったら、観客だった。あの声援にはざわざわした。あれがあんなジャンプをさせてくれた」 (9)「大倉山に負けた」