「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
笠谷さんは札幌五輪で金メダルを獲得したことより、5日後に行われた90メートル級で7位に終わったことをずっと悔やみ続けた。1回目は106メートルの2位につけた。2回目は1回目首位だが19歳と若くて実績のないウォイチェフ・フォルトナ(ポーランド)が失敗した。逆転優勝するチャンスは十分あった。ところが笠谷さんも85メートルと失速した。結局集大成とした打倒大倉山を果たせなかった。70メートル級優勝後の気持ちの整理をうまくつけられず、技術的にも失敗した。 「70メートルはこんなものでいいのか、という思いで、それより気持ちは本命の90メートルに向いていた。絶好調だったよ、俺には珍しく。でも70メートル級から間隔が空きすぎたね。すぐやってくれれば良かったのにな。勝ったことによって精神的に変な感じになり、プレッシャーがあったかもしれないね。(2回目は)90メートルを飛べば良かった。大倉山でいつもは90メートルに落ちるわけないもん。もっと飛べるよ。そこに降りようとしても降りられないんだ。それが…。絶好の風だった。飛びすぎて転ぶかもしれないということを心配しないといけないぐらいの状況さ。踏み切ってすぐにあかん、と分かったよ。簡単に言うと、上に蹴った、遅れたという世界さ。(1998年長野五輪のラージヒルと団体で金メダル、ノーマルヒルで銀メダルの)船木和喜さんのように、前に出ていたら飛べていた。それで空気に挟まれなかった。なんであそこまでいって失敗するかなあ。人間なんですよ。誰のせいでもない、しょうがねえ」
「大倉山に負けた。ということは(70メートル級も含めて)全部負けたと同じだ。宮の森をやっつけたけど、大倉山をやっつけられなかった。やっぱり90メートル級がメインだから、勝ちたかったよ。どうせ勝たせてくれるのなら、90メートル級が良かった」 (10)「みんな侍」 札幌五輪のジャンプ代表は7人だった。開幕時に29歳の青地清二、益子峰行、28歳の藤沢隆、笠谷幸生、27歳の金野昭次、26歳の板垣宏志、24歳の沢田久喜である。そして表彰台独占の偉業。その26年後の長野五輪も代表7人で挑み、ノーマルヒルで船木和喜が銀、ラージヒルで船木が金、原田雅彦が銅を取り、岡部孝信、斎藤浩哉、原田、船木で臨んだ団体を劇的な逆転優勝で飾った。 「68年グルノーブル五輪を終わったあたりから、藤沢、金野、笠谷、青地に益子がいて海外遠征をして、国内試合はみんなで仕切る感じだった。それに若手の沢田、板垣が加わった。みんな侍。まとめ役は益子。でも仲良しグループではないんだ。それぞれに自分のすることをして結果を残すという世界だった。いいライバルさ。チームワークってそういうもんだよ。長野五輪もそうだろう。札幌五輪で団体戦(88年カルガリー五輪から)があったら、楽勝だった、うん、それは言える。他の国は強い選手はいたけど、1人か2人だったから」