伊勢丹をやめたら負け犬になる──元日本代表・吉田義人が天国と地獄のラグビー人生を語る
ラグビーのワールドカップ(W杯)が9月8日に開幕する。舞台はフランス。今からおよそ30年前、W杯で希望と絶望を味わい、フランスの地で己の可能性にチャレンジした一人のラガーマンがいた。 吉田義人。俊足ウィングとして数々の鮮烈なトライで時代の寵児となった男は、強豪実業団からの誘いを蹴って弱小チームを選んだことでも世間を驚かせた。日本のスポーツがアマチュアからプロへと変わる激動期を駆け抜けた男は、何を信じ、どう生きたのか。当人が語る唯一無二のラグビー人生──。(取材・文:山口大介/撮影:矢内耕平/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
2000人くらいから聞かれた“事件”の真相
コブのように硬いふくらはぎ、分厚い鉄板のような腹筋。54歳になった吉田は今なお、往時を思わせる肉体を保っている。およそジムの筋トレでまとうことができる筋肉ではない。故郷・秋田は寒風山のふもとで育ち、幼少期から自然の中を走り回ることで鍛えられた生来の強さだろう。 インタビュー当日、そんな頑強な体を、さわやかな水色を基調としたスーツに包んで、吉田は姿を見せた。 「もう10年以上前に伊勢丹でそろえたやつだね」 伊勢丹。吉田の濃密な人生を語るうえで、同社への入社は欠かすことのできない出来事だ。吉田自身も「なんで伊勢丹に行ったんですかって、もう2000人くらいに聞かれてきました」と冗談めかして笑う。 令和のいま、伊勢丹と聞いてラグビーを連想する人は皆無だろうが、大学ラグビーが今よりはるかに人気があった平成初期においても、花形選手だった吉田の伊勢丹入社はちょっとした“事件”だった。 「大学進学で志望した学校に行けなくて。大人の都合で決められてしまった。だから、俺の人生は俺のものだ、次の進路は俺が決めるんだという気持ちがあったんですよ」 秋田工業高校、明治大学とラグビーの名門を歩み、高校でも大学でも日本一になった。誰もがうらやむ陽の当たる道を進んだが、実は教師になる夢があった吉田の希望は日本体育大学への進学だった。特待生での入学もほぼ決まっていたが、大学ラグビー界で絶大な影響力を持っていた明大・北島忠治監督の鶴の一声で一転、明大に進むことになったのだという。