「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん
東京地検特捜部の調べなどによると、経営企画室のある社員は、秘密会議のあとに「B副社長」からこう命じられたという。 「うちの会社に『飛ばしの受け皿』となるような会社はないか。評価損を抱えた厄介な有価証券があって、相手企業の勘定から山一の勘定に移したい」 つまり「顧客企業が抱えている損失を、山一側に飛ばして、抱えておけるような会社を見つけてくれ」との指示であった。 この社員は特捜部にこう告白した。 「系列のノンバンクを提案しました。すでに山一はそのノンバンクに『不良債権』を移して『缶詰』にしていました。山一本社との関係をなるべく切り離して、監査が入らないようにしました」 「不良債権」の「缶詰」というのは、不良債権を子会社に移し替えて、山一本体の決算書をきれいに見せ、監査法人や株主の追及をかわすためである。そのためB副社長らは次々に「ペーパーカンパニー」を設立、損失が表面化しないように、それぞれの会社の決算期を3月、11月、10月などに割り振った。 「ペーパーカンパニー」を分散した理由はもう一つあった。 「評価損を一か所に集中すると目立つので、ペーパーカンパニーを分散した。からくりは、一つの会社の負債総額が『200億円未満』であれば、会計監査の対象にならない。そのために損失を小分けした。受け皿会社で簿外を引き受けると決めたときから、いつか、こういうこと(経営破たん)が起きるとは思っていた」(山一社員 当時) 実は11月24日の2回目の「ホテルパシフィック東京」の秘密会議、出席者から疑問の声が上がっていたことがわかった。 8人の幹部のうち、経理畑が長かったA役員が、粉飾決算の疑いを懸念してこう発言したのだ。 A役員「会計上問題があるので、公認会計士に聞いたほうがいいのでは」 しかし、この発言はB副社長によって封じ込められた。 B副社長「聞かなくてよい。ノーと言われたらうちがつぶれることになる」 最終的に行平社長も「この方法しなかない」と決断したとされる。 東京地検特捜部は、この「B副社長」こそがキーマンと見ていた。当時社長だった「山一のドン」行平体制のなかで、権力の中枢にあった事業法人部門を担当し、部下に「飛ばし」や「簿外債務」のスキームをつくらせるなど隠ぺいの実行部隊を主導していたのだ。しかし、「B副社長」はすでに死亡しており、特捜部が事情聴取をすることはできなかった。 山一証券の生死を分ける「分岐点」はどこだったのか。国広は、「飛ばし」を決めた1991年の2回の秘密会議ではないかと振り返る。