「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん
そこで使われたのが「飛ばし」である。 決算期前に含み損を抱えた「A企業」が、損失を表面化させないよう、決算期の異なる「B企業」に簿価(購入時の価格)で一時的に引き取ってもらい、「A企業」の決算期を過ぎたところで、利息分を加えて再び「企業」から買い戻す取引のことだ。 「飛ばし」によって一時的に損失を抱えてもらうことは、「一時疎開」とも呼ばれた。もちろんこれは、投資家や株主の目をごまかしているわけで、違法な「粉飾決算」にあたる。 山一はこれを繰り返していたが「飛ばし」にも限界があり、最終的には自社グループで引き取らざるを得なくなる。結果的に「2,600億円」もの「簿外債務」を、国内の「ペーパーカンパニー」や「海外子会社」に移し替えていた。もちろん、決算書のどこを見ても出てこない。 「調査報告書」によると、山一首脳陣が「損失隠し」いわゆる「飛ばし」をすることをオーソライズする場となったのが、1991年に行われた2回の秘密会議だった。 1回目は1991年8月24日の土曜日。東京・赤坂の「ホテルニューオータニ」ビジネス棟の5階の小部屋に、人目を避けるように会長の行平次雄、社長の三木淳夫ら9人の役員が集まった。担当役員がホワイトボードに資料を貼り付け、「含み損」の実態を報告した。 役員「含み損が約5000億円に膨らんでいる。客は全部引き取ってくれと言っています」 行平「全部引き取ったら、会社がつぶれてしまうだろ。なるべく相手に引き取らせろ」 全員が息を飲んだ。この場で確認されたことは、顧客企業が抱えている「含み損」を「飛ばし」で対処することだった。しかし、山一は「飛ばし」の引き受け手には利息を払うが、株価は暴落しており、引き受け手を探す交渉も難航した。 2回目は11月24日の日曜日。東京・高輪の「ホテルパシフィック東京」の一室。 「損失隠しのスキーム」を主導し、行平の腹心と言われた「B副社長」ら8人が行平を囲んだ。年明けから、新たな法律により顧客への「損失補てん」が禁止されるため、対応が急務だった。 最終的に引き取り手が見つからずに残ったのが、「東急百貨店」など7社が抱えていた「1,200億円」の「含み損」のある「有価証券」だった。 そこで仕方なく、「含み損」を山一の「ペーパーカンパニー」で引き取るという処理案が承認されたのである。 当然、山一の決算書には出てこないため「粉飾決算」である。つまり、「含み損」を隠ぺいする方針が決まった瞬間である。