西村ゆか、摂食障害や毒親との確執…「しんどさ」を抱えてきたからこそ伝えたいこと
大人だって、しんどいときはしんどい
大人になると、子どもに向き合う時間や親の介護、上司としての責任ある立場など、様々な局面で「自分のことはとりあえず横に置いて生きる」という時間が長いように感じる。何かあったらきちんと話を聞いてもらえる環境は、メンタルが安定するという。自分の場合、出版というプロセスで、これまでに起きた「何か」を、これ以上ないくらいにじっくりと聞いてもらうことができた。 でも、多くの大人にとって、辛かったりしんどいことが起きたとしても、とりあえず自分の気持ちには一旦蓋をして、問題解決や改善のために動くことがほとんどだろう。一人では何もできなかった未熟な子ども時代と比べ、経験値も積めば視野も物事の捉え方も広くなり、感情のコントロールにも長けてくる。だから、無駄には傷つかなくはなるとはいえ、でもやっぱり大人だって、しんどい時はしんどいんだよなぁと。 ところで、出版のタイミングでYouTubeを始めてみた。途切れなく来る質問に対してバッサバッサと軽快に回答する夫と比べて、私は喋るのがだいぶ苦手だ。多分文章の方が得意だし、相手にも簡潔に伝わると思う。自分でやり始めておいて、お前は何を言っているのだ? という感じなのだが、それなのに何故やっているのか? というと、わざわざ観に来てくれる人と、少しでも良いから話してみたいと思ったのだ。 自分の場合は、ライブ配信がメインで毎回特にテーマは決めていない。最近の近況だったり、好きなコーヒーの話などをゆるく話し始めて、あとは視聴者さんとおしゃべりをしている。担当編集に許可をもらい、著書の一部を読み上げ、それについて語ることもある。私から姿は見えないけれど、喋り下手な私の配信に来てくれる人たちは、耳を傾け、声や感情を拾うのが上手な人たちのように(勝手に)感じている。 そして、たわいのないお喋りをしていると、ポツリ、ポツリと、仕事の悩みであったり、夫婦や親子の関係でしんどいという声が届く。そう伝えてくれる人たちは、「しんどい」と感じてしまっていること自体に、ある種の申し訳なさを感じているようにも受け取れる。