「手術をしないと性別変更できない」は憲法に違反するか #性のギモン
「厳格な要件のもとで認められるべき」という考えは周回遅れ 渡邉泰彦さん(京都産業大学教授)
特例法の要件については、全部いっぺんにやめてしまえ、というのが私の立場です。どこからでもやめていったらいいよ、と。それは、立法の際に「厳格な要件」が必要だと思ったことに対する反省ですよね。 立法当時(2003年)の社会的な情勢や、学問的な水準に鑑みれば、一定の要件を課すのは当然と思われたのですが、わずか数年後にその状況がガラリと変わりました。まったく予想できませんでした。 諸外国から遅れること20年、ようやく日本でもトランスジェンダーの性別変更に関する法律ができたと思ったときには、ヨーロッパではすでに、要件の削除に向かって進み始めていたのです。 例えば、ドイツの連邦憲法裁判所は2008年に、トランスセクシュアル法に定める「婚姻していないこと」という要件を違憲と判断しました。さらに2011年には、「継続的に生殖不能であること」「性別適合手術を受けていること」という要件についても、違憲と判断しました。 日本の立法当時の、我々専門家も含めた「トランスジェンダーの性別変更は例外的なことなのだから、厳格な要件のもとで認められるべきだ」というスタンスは、振り返れば周回遅れだったのですね。 当時は、戸籍の性別を変えられるだけでも、当事者の方たちにとっては大きな一歩でした。その頃の社会情勢の中で、我慢するところは我慢して、法案を成立させることを優先したというのが、実情だったと思います。
戸籍の性別変更は、スタートではなくゴール
授業で性別の問題を取り上げるときに感じるのは、女性の格好をする男性はすべてトランスジェンダーなのだとか、「自認する性別」をいつでもころころと変えられるものみたいな意味でとらえている人が、まだまだ多いということです。 そうではなくて、自分がアイデンティティーを持つ性別と、生まれたときに割り当てられた性別が一致せず、違和が続いているということです。 このような違和は、当事者でない者にはわかりにくいものです。私もきちんとわかっていないと思うのです。 にもかかわらず、身体だけを基準に性別を考えてしまうと、「性別が変わること=性別適合手術」という感覚になるのだと思います。手術は性別違和を除去するために行われるものです。手術以外の方法、例えば服装や生活、ホルモン治療などにより自認する性別に合わせることで違和がやわらぐ当事者もいます。 戸籍上の性別が変わると同時にすべてが変わるというのは幻想にすぎません。性同一性障害特例法による性別変更は、社会的な性別が自認する性別に合わせられたあとに、最終段階として登場するにすぎません。スタートではなく、ゴールです。 これらのことを理解していないと、手術要件を廃止してほしい当事者は性同一性障害ではないという誤解が生じるわけです。 日本の場合は、公衆浴場の文化がありますから、手術要件を廃止すると、温泉施設などの事業者は、はじめは対応に苦慮するかもしれません。ですが、戸籍上の性別は一つの基準ではあるけれども、絶対的なものではないので、なんらかのルールを作ればいいと思います。少なくとも、公衆浴場の利用を理由に要件を維持するのは、本末転倒な気がします。 では、特例法の要件をなくした場合に、何を基準に戸籍上の性別変更を認めるか。性同一性障害の診断という条件は残ります。次は、診断書の必要がなく、自己決定でよいのかです。大事なのは、当事者が、性別変更によって生じる重大な効果を理解し、きちんと責任を持って自己決定できる環境を整えることです。最近でもスペインやスコットランドで診断書を不要とする法律が可決されました。これらは、女性トイレに侵入した男性が「自分の性別は女性だ」と主張して、すぐ後に「やはり男性でした」というようなことを許すものではありません。 少数派の権利のような多数決に乗らないものについて、どうやって正義を実現するかというときには、法とか裁判所というものが力を貸すべきで、それは民主主義を補完する大事な機能です。最高裁も当然、多数派や社会というものを考えながら判断するときもあるけれども、原則論としてどうあるべきかということを、見ていく必要はあるでしょう。 --- 「#性のギモン」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。人間関係やからだの悩みなど、さまざまな視点から「性」について、そして性教育について取り上げます。子どもから大人まで関わる性のこと、一緒に考えてみませんか。