発掘時代の終わり。清水穣評「没後30年 木下佳通代」展
発掘時代の終わり ポストコロニアリズムによる美術史の書き換えと修正の当然の結果として、モダニズムもまた、欧米に限らず、グローバルに分布する複数の現象として捉え直されるようになって久しい。その結果、1980年代までは「欧米」の「コピー」が「日本」という外皮を被っただけの存在として、オリンピック的「国際交流」のなかで、それなりの場所を充てがわれるに過ぎなかった日本現代美術は、戦前に同時代的に展開された「もうひとつの(オルタナティヴ)モダニズム」からの連続性の相のもとに再解釈・再評価され、海外の近現代美術館の常設コレクションの空白を埋めるかたちで購入されていった。 その対象は、英語圏のアカデミアにおける研究の蓄積とともに、50年代、60年代、70年代と進み、80年代デビュー組の作家たちの一部(岡﨑乾二郎!)にまで及んでいる。自国の作家に対する冷淡と怠惰が特徴的であった日本の文化官僚(学芸員!)が、この一種の外圧に背中を押されて、遅ればせながら日本人作家の回顧展をどんどん企画するならば喜ばしい。本展もまたこの流れに連なる。木下佳通代については1996年、大阪のAD&Aギャラリーで初見して以来、気にかかっていた。その時点ですでに回顧的な図録(*1)が出ており、約30年後の本展は質量ともにそれを補う回顧展ということになる。ずいぶん時間がかかったものだが、物故作家の場合、再評価は著作権保持者の理解と協力に大きく左右される。左右された結果、30年も待たされたということだろう。 企画者の忍耐と努力に感謝すべきである。 展覧会自体は時系列順で、最初に「存在」「等価に存在するなにか」という基本コンセプトが提示される。これはカント的な二元論、すなわち表象のシステム(存在を差異化するシステム:平面への射影、グリッド、遠近法)と、その外部(差異化以前の等価性の世界:人新世以前の世界、モノ自体)という、モダニズム一般の骨格をなす二元論で、それが木下の出発点であった、と。1971年の「滲触」シリーズは、前者をグリッド(視覚)、後者をそこからはみ出す滲み(触覚)に割り振った単純明快な表現で、作家の出発点を標している。次に作家は72年から(アナログ)写真に転じて、写真という表象システムを点検しはじめる。基本的に彼女の関心は、写真(システム)と被写体(存在)のあいだのズレではなくて、表象システム(ここでは写真)の原理をある「同時性」のうちに圧縮することにある。ある表象システムを、自己言及性に追いやる(「撮影する」「描く」といった行為の目的語を「撮影」「描画」自体に重ねる)ことで検証する姿勢は、70年代の作家たちに共通する傾向でもある。写真の原理が「それはかつてあった」であるとき、ある時刻の花時計の写真と、その撮影時の時刻はずれていなければならないが、木下は両者を同時性のうちに重ね、一種の目眩を発生させるのだ。同じ時刻で日付の異なる5つの時計《Untitled / む59(腕時計)》もそうである。曜日が火曜日に揃えられているため、それぞれ1974年(制作年)の1月29日、4月2日、5月21日、8月6日、9月3日であることがわかる。5つの日付が火曜日になるのは、1974年、1985年そして2002年(以降28年周期)であるから、ここに表現されているものは回帰する時間(同じ時刻へ重なり続けること)であると言える。 同時性への圧縮が最も明確な表現を見出すのは、76年から80年までの写真とドローイングの代表作であろう。最初は、コンパスで紙の上に円(見かけは楕円)を描いている場面を写した印画紙の上に、その円(正円)を描き重ねる作品で、最初の紙と作品の印画紙が異なるため同時性が弱かったが、78年以降は、線を描いた紙に、同じ紙をくしゃくしゃにしたり折り畳んだりした映像が重ねられ(制作順序は逆)、「花時計」と同じように、本来別々の時間が「同じ物」として同時に重ねられる。この方法論をより洗練させると、磯谷博史(1978~)の写真に至るだろう。 しかし79年、折り畳む代わりに色面が用いられるようになると、「同時性」は、異なる時間の圧縮ではなく、複数のレイヤーの同時存在へとずれていく。キュビスムのコラージュでは、線描が異なるレイヤー面を横断したり、ある線描に影がつけられて部分的なレイヤーが発生したりして、レイヤーの積層関係を壊乱するが、まったく同様に、80年と81年の移行的なドローイングとパステルの仕事は、キュビスムのコラージュに、すなわち「存在」への100年前のアプローチに接近している。しかし「厳密に視覚的な3次元性」たるレイヤーの表現は、システムの組み換えではあれ、「存在」にふれはしない。 82年に開始された絵画への飛躍は、作家の危機感であったのだろう。というのは、82~85年に描かれた、支持体面を見せつつ単色の色面と拭き取り跡からなる絵画群は、レイヤーでありつつ(システム)、そのコラージュではない(逸脱)表現になっているからである。つまり、これは 71年の「滲触」の再開でありリセットなのだ。ただし、グリッドが支配的で、そこに一部だけ「存在」が滲み出していた旧作とは異なり、 縁だけを残して深い単色の存在が画面を支配し、色面ではなく、色の雲や霧のような曖昧な空間性を漂わせている。支持体面上の色面のレイヤーではなく、色調(トーン)がレイヤーの平面性を侵食することが問題であったはずだ。 が、またもや、86年以降、単色の色塊は、霧が晴れるように、支持体面の上での線分の集合へ分解し、それらは十字型(キュビスムの矩形の名残である)の線分とランダムなストロークへと分岐し、さらに細線と太線に、濃い線と薄い線に分かれていった。こうして基本的に木下の絵画は、またも「存在」から離れ、これら対立要素が支持体の上で組み合い、様々な空間関係(前後、奥行き、レイヤー積層)を産出する、見慣れた差異のシステムへと舞い戻るのである。93年、最晩年の⻘と赤の大作では、十字型の線分が画面を切断する新たな気配を見せるが、白という調和がそれを飲み込んで安定させてしまう。 全体を通じて言えることは、木下佳通代はつくりすぎた。反復される描画作業の慣れによって、最初のコンセプトはどんどんブレていく。癌で残された時間、必死に制作に取り組んだことは理解できるが、800点も描けば、量が質を冒しても不思議ではない。 さて、日本の現代美術界が、小規模ながらもグローバルスタンダードな陣形を整えたのは90年代以降であるから、日本現代美術作家発掘はそろそろ終わるだろう。外圧が消えて、日本の学芸員たちは旧弊に戻ってしまうのだろうか。借用展(ポンピドゥー・センター・コレクション展、大エルミタージュ展など)とグループ展(新人のショーケース展やいわゆる「キュレーション」展)に偏向し、単独の日本人作家に焦点を絞った回顧展をしない、と。その理由として「観客動員数」が口にされる。なるほど借用展は、 現代美術に疎いテレビ局や新聞社がスポンサーにつくドル箱展だろうが、グループ展の集客力などもともと知れているであろう。10年後にはいないかもしれない作家のショーケースも、「時代の風を読む」キュレーションも要らないから、この枠で、過去・現在の日本人作家の回顧展を開くほうが、よほど集客になるだろう。とくに地方の美術館は、人口の少ない地元ばかり見ていても客足が伸びるわけもなく、羽田からの直行便を見込んで、東京圏から人を呼び込む企画力こそ求められているはずである。 *1──『木下佳通代 1939 -1994』AD&AGallery、1996年。 (『美術手帖』2024年10月号、「REVIEW」より)
文=清水穣