「承認欲求モンスター」が「食レポ」と出会うとどうなるか…エリックサウス総料理長が感じた食語りの“重さ”とは(レビュー)
さて、今日は行ったことのない店で食べてみるか。そんな時、現代では誰かの「食レポ」を参考にすることが多くなった。 グルメレビューサイトを成立させている多数のレビュー、SNSで投稿される一般人の感想と、この世は膨大な数の食レポで溢れている。きっと、「この店の味付けは…」などとSNSで語った経験のある方も多いことだろう。 しかし、自身の発した食レポが及ぼす影響にまで、思いを巡らせたことはあるだろうか。 作家・柚木麻子さんの短編集『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)では、他人をラベリングすることの重さを突き付ける6編が描かれている。このうちの一編である「めんや 評論家おことわり」を、大人気の南インド料理専門店・エリックサウス総料理長の稲田俊輔さんはどう読んだのか。食の最前線に立つ稲田さんが、“承認欲求モンスター”と食語りの“重さ”を語った。
■「おいしい」「まずい」と食べ物を語るのは誰にでもできることだが…
食べものの味について何かを語るということは、誰にでもできる簡単なことであると同時に、なかなか難儀なことでもあります。 世の中の食べものはどれも概ねおいしいものであり、それを食べることは快楽です。快楽と感じることで、人類はこれまで命を繋いできました。あるものを食べて「おいしい!」と思わず声が出てしまうのが、味を語る第一歩です。あるいは不幸なことにたまたま、それが腐敗などの理由で閾値を超える毒性を含んでいれば、「まずい!」と周囲に警鐘を鳴らす必要も出てきます。 しかし現代において味を語るというのは、そのように単純なものではなくなってしまいました。おいしいはずのものでも、そこに何らかの部分的な瑕疵があれば「まずい」ということになってしまいます。そして人類は文明の中で、その瑕疵を責め立てる概念を次々に発明してきました。食うや食わずの時代であればせいぜい、「辛い」「硬い」「苦い」「味が薄い」、といった程度のものだったでしょうが、そのうち、「深みが無い」「バランスが悪い」「風味に欠ける」といった具合に、瑕疵を責め立てる概念はより抽象的になり、多様化もしていきました。果ては、「凡庸だ」「センスが無い」など、あたかも芸術作品に対して向けられるような批評も、味を語る言葉の仲間入りを果たしました。 味を語る難儀さというのは、そういった指摘が全て主観に委ねられていることに他なりません。しかし原初においてはせいぜい栄養の多寡と毒性の有無くらいを判別できれば充分であった人間の味蕾にとって、高度に抽象化された批評はあまりにも荷が重い。それを無理やりやってのけているのが現代人です。