「承認欲求モンスター」が「食レポ」と出会うとどうなるか…エリックサウス総料理長が感じた食語りの“重さ”とは(レビュー)
■食語りに承認欲求が加わって生まれた「怪物」の物語
自己承認欲求は現代人の業です。多くの人が、それ無しにはもはや生きてはいけません。しかし自己承認欲求を満たすためには何らかのリソースが必要です。美貌、収入、経歴、などなど。様々なリソースが考えられますが、食について語る見識もそのひとつになり得ます。しかも美貌や収入に比べれば、格段に参入障壁が低い。味蕾(みらい)というプリミティブな器官は万人に備わっているからです。 参入障壁の低さは競争の激しさと表裏一体。例えば飲食店は誰にでも始められるものの、3年以内にその多くが廃業するという話があります。食を語るということは、どこかそれに似たものがあるような気がします。自己承認欲求の世界は(商売と同じく)ライバルを出し抜かねば成立しません。どうしても過激化が進み、そこには怪物が現れます。悲しきモンスターです。もちろん食を語る世界も例外ではありません。瑕疵の指摘は微に入り細を穿ち、時には味とは直接関係のない周辺情報も強引に巻き込んでしまいます。 柚木麻子さんの短編集『あいにくあんたのためじゃない』に収められた『めんや 評論家おことわり』の主人公は、そんな悲しきモンスターである、ひとりのラーメン評論家です。
■成し遂げれば「英雄」だが、別の角度から見れば…
先に一言おことわりしておきますが、食を語るといういとなみ自体は、尊くそして価値のあることだと個人的に思っています。本来は主観として個人の記憶だけに留め置かれる、あるいはせいぜい日記に書き留められる程度であるはずの「おいしさ」を、情報として公のものとする。それは実際問題多くの人々に求められているからこそ、レビューサイトもグルメ本も成立するのです。 ジャンルによっては、食を語ることが職業として成立するに至ることだってあり、その代表的なひとつがラーメン評論家ということになるでしょう。好きなものに関して好きなように語ることがお金になるなんて、側から見ていると羨ましい仕事にも見えますが、同時に難儀この上なさそうな気もします。所詮個人の主観に過ぎない「おいしさ」ということに、普遍的な説得力を持たせなければ成立しないからです。その為に経験を積み、知識を深め、求められる情報をエンターテイメント性たっぷりに提供し続けねばならない。難しい仕事だからこそ、成し遂げれば英雄です。 英雄は往々にして、別の角度から見ると悪鬼となってしまいます。織田信長もナポレオンもそうでした。本作の主人公もそうです。彼が世のニーズに応える為に、いやむしろ評論家としての自分の評判を維持する為に、面白おかしく書き散らしたラーメン記事は、少なからぬ人々の人生を狂わせてしまいました。ラーメン店の店主、元従業員、たまたま居合わせたお客さんなど、主人公のせいでネットに渦巻く悪意の波に飲み込まれてしまった人々です。 彼らから見ると主人公は悪鬼以外の何者でもありません。彼らは運命に導かれるように一軒のラーメン店に集い、そして復讐が始まります。あたかも『南総里見八犬伝』のように。