漱石の孫・半藤末利子「嫁入り道具として持参した、夏目家の糠漬けを共に食べて59年。昭和史の語り部と称される夫・半藤一利は、静かに逝って」
『日本のいちばん長い日』『昭和史』など数々のノンフィクションを執筆し、昭和史の語り部と称される作家で歴史研究家の半藤一利さんは、2021年1月、90歳で亡くなった。妻でエッセイストの半藤末利子さんが、疎開中の出会いから始まった二人の思い出を辿る(構成:篠藤ゆり 撮影:洞澤佐智子) 【写真】穏やかに微笑む半藤末利子さん * * * * * * * ◆意外だった最後の言葉 夫・半藤一利が亡くなって3年以上たちますが、一人の生活はイヤなものですね。楽しくもなんともないですよ。考えてみたら、一人暮らしは人生で初めてですから。 夫が体調を崩したのは、2019年に大腿骨を骨折したのがきっかけでした。大酒呑みでおっちょこちょいな人なので、酩酊して足元がおぼつかなくなり、転んでしまったのです。 じつは、それ以前にも、酔って玄関の前で転んで、夜中にお向かいのご主人様が担いで運んでくださったことがあって。「もう二度とそんなバカな真似はしないでよ」ときつく叱ったのに。 手術後、リハビリ病院に転院したものの、年が明けてから再手術することに。その後、なにかを誤嚥した結果、下血したりして、計10ヵ月ほど入院しました。退院後はリハビリをしながら、原稿を書いたり、ゲラを読んだりと、それまで通りの生活を取り戻していたんです。 でも、どこかで死期を察していたのでしょう。「コロナの時代に一ついいことがあるとしたら、派手な葬式を誰もやらなくなったことです。私が死んだ時も、葬式はしないでください」と言っていました。ですから、いたしませんでした。 そのうち臥せるようになり、1週間ほど下の世話をしたのかしら。すると、「あなたにこんなことをさせるなんて、思ってもみませんでした。申し訳ありません」と泣きながら謝るんです。そんなこと言われたら、こちらも胸がいっぱいになって。
そして亡くなる数日前から、「私、死にます」と真剣な声で言うようになったのですが、私にとって死という言葉は重くて、とても返事をする気になれず涙がこみあげたものです。 夫と私の子はいませんが、夫には、前の結婚で生まれた娘がいます。ある朝、彼女が様子を見に来てくれました。「まだ寝てるのかしら」と、朝食を食べていた私と一緒に寝室に行ったのですが、娘が夫をひょいと見ると、「あれっ、息をしていない!」。びっくりして私に飛びついて、わっと泣き出しました。 でも私は、すぐには涙が出ませんでした。やるだけのことをやったし、これ以上私に大変な思いをさせないよう、静かに逝ってくれたんだ。なんと見事なんだろう、すごいなぁと、感謝の気持ちでいっぱいでした。 あれは亡くなる前日だったでしょうか。明け方、隣のベッドにいる私に「起きてますか?」と声をかけてきて。「墨子(ぼくし)は2500年前の思想家だけど、あの時代に、戦争はいけないと言っている偉い人です。だから、墨子を読みなさい」。今思えばそれが遺言でした。それなのに私は、まだ墨子を読んでいないんですけどね。 彼は終戦の年、東京の向島区(現在の墨田区)に住んでいました。一晩で約10万人の非戦闘員が亡くなった3月10日の東京大空襲を、かろうじて生きながらえたのです。 その経験が原点となり、終始一貫して、「戦争のない、平和な世の中を続ける」ことを願い続けたのだと思います。ちなみに打ち上げ花火はずっと嫌いでした。音と光が空襲を思い起こさせたのでしょう。
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