漱石の孫・半藤末利子「嫁入り道具として持参した、夏目家の糠漬けを共に食べて59年。昭和史の語り部と称される夫・半藤一利は、静かに逝って」
◆熱意にほだされて結婚 半藤と初めて会ったのは、小学5年生頃。父の故郷、新潟県長岡市に疎開中、兄の友人の一人としてうちに遊びに来ていました。彼は空襲で焼け出され、長岡で暮らしていたんです。 戦後、社会人になった兄のところに遊びに来るようになり東京で再会。大学生の私はふわふわしていて、バスケットボール選手に憧れたり、いろいろな男の子とデートしてはすぐ飽きたり。 あの人は東大のボート部で活躍していましたがハンサムボーイではないし、5歳しか違わないのに、なんだかじいさんみたいな顔で惚れる対象じゃなかったの。(笑) ところが彼は、「好きです」「結婚してください」と、懲りずに何度も言ってくるんです。しまいには「あなたの奴隷にしてください」なんてことまで言い出して(笑)。「ほんとかしら?」と思ったけど、女性に対してそこまでへりくだれる男の人は初めて。私はそんなふうに人を愛する感覚がわからなかったので、断り続けていました。 一つには、彼は離婚歴がありましたから、私が子持ちの男と結婚したら親が悲しむと思ったんです。姉はアメリカ人と結婚するなど、きょうだいみんな自由というか、親が願っていたのとは違う生き方をしていて。末っ子の私は、親を悲しませてはいけない、という気持ちが強かったのかもしれませんね。
私の父は作家の松岡譲で、母・筆子は夏目漱石の長女です。なんでも同じく漱石門下の久米正雄と父が母をとり合ったとかで、今風にいうとスキャンダルになり──でも、母が父を好きになってしまったのだから仕方ありません。 半藤も文藝春秋社で雑誌の編集者をしていたので、大きな声では言えませんが、今も昔もマスコミは勝手なことを書きますよね。母も傷ついただろうし、屈託を抱えた結婚生活だったと思います。 漱石の妻・鏡子も、悪妻の見本みたいに言われたでしょう。でも、母はいつも「母は父に対して、正座して手をついてお話しするような人でしたよ」と言っていました。悪口も一切言わなかった、と。 漱石は精神を病み、妻への暴力や暴言もあったそうです。それでも漱石を支える覚悟を決めたのですから、肝が据わった女性だったんでしょう。まぁ、結婚の実態というのは当事者にしかわからないですよね。 ただし祖母は朝寝坊で、料理は下手。ですから、料理が上手だった私の母は、「あの味では父が気の毒でした」と言っていました。(笑) 話を戻すと、私は半藤の熱意にほだされ、ここまで愛してくれる人はそういないだろうと思うように。そんなわけで私が27歳の時に結婚し、彼の娘は義母が面倒をみることになりました。 結婚する際、「嫁入り道具」として持参したのが、代々伝わる糠床です。祖母が漱石の家に嫁ぐ際に持参し、母がそれを受け継ぎ、さらに私が受け継いだので、江戸時代からずっと続いていることになります。 半藤はお酒が好きだから、酒のさかなになるおかずをよく作りましたが、糠漬けも毎日の食卓に欠かせないものでした。 (構成=篠藤ゆり、撮影=洞澤佐智子)
半藤末利子
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