ジョイマン高木「ネガティブなことも自分の燃料に」SNS上の争いに感じた心苦しさ
SNSは世間と繋がる唯一のツールだった
――メディア露出が減る中で、SNSで「ここにいるよ」という投稿が始まりました。 高木晋哉: その当時は、暇があればエゴサーチをしていました。「ジョイマン」と検索をすると、「ジョイマンどこ行った?」「ジョイマン消えた?」「ジョイマン死んだ?」など、ネガティブなワードがかなりの数あったんです。こういう投稿を見て「みんな、ジョイマンのことを見失っているな。教えてあげなきゃな!」と思い、一人一人に「ここにいるよ」と返信し始めたんです。メディアに出ることができないなら、一人一人に思い出してもらえばいいんだっていう。当時、僕の中では世間の人とコミュニケーションが取れる唯一のツールでしたね。 ――ネガティブな声に対して、前向きに捉えたのが始まりだったんですね。 高木晋哉: 芸能人が一般の方の投稿に対して、言い返してケンカをするみたいなシーンをよく目にしていました。言い返したくなる気持ちも分かるんですけど、それを見ていると、心苦しいなとずっと思っていました。もう少し違うやり方があるんじゃないのかと思っていたときに、「ここにいるよ」という投稿をしたんです。その返信をもらった人も、そのやりとりを見ている人もクスッと笑うことができたんだと思います。その返信を続けているとだんだんネタのようになってきて、面白がってくれる空気になっていきました。そうやって、ネガティブなことでも自分の燃料に変えられる方法を見つけられたので「ここにいるよ」の活動に、すごくやりがいを感じましたね。 ――前向きに「ここにいるよ」と発信する一方で、一発屋芸人と呼ばれるのに葛藤する時期もあったと聞きました。 高木晋哉: もちろん、自分が一発屋になるなんて思っていませんし、僕らは違うと言い聞かせてやってきました。最初は受け入れられなくて、一発屋芸人と呼ばれることに葛藤していましたね。そんな中で「僕たちは一発屋芸人だ」と間違いなく言えるようになった大きなきっかけがありました。それが2014年の“サイン会0人事件”です。営業で行ったサイン会に、1時間待ってもお客さんが誰も来なかったことがありました。そのときの写真をTwitterに載せたら、すごい反響があったんです。ジョイマンのことなんて誰も頭の片隅にもなかった人たちが、このツイートで僕たちを思い出してくれて「あ、ジョイマンっていたね」「ジョイマンって、こんな可哀想な状況なんだ」という反応があって、周りの芸人さんも「面白い」と言ってくれたので、気持ちがすごく楽になった感覚がありました。この頃から胸をはって「一発屋芸人です」と言えるようになってきました。そういう意味では、Twitterがあって本当に良かったなと思いましたね。