「白眼視」の語源は酒飲み思想家の「偽善者嫌い」だった! 中国屈指の個性派思想家グループ「竹林の七賢」筆頭〈酒徒〉の生き様
酒でしか洗い流せないもの
ところで、阮籍が口にしたのは、右の話にみられるような楽しい酒ばかりではなかったであろう。むしろ、苦い酒を口にするのがしばしばであったようだ。「觴[さかずき]に臨みて哀楚[あいそ]多く、我が故時の人を思う。酒に対[むか]いて言う能[あたわ]ず、悽愴[せいそう]として酸辛[さんしん]を懐いだく」。あわせて八十二首をかぞえる「詠懐詩[えいかいし]」、其の三十四にかれはこのようにうたっている。 「哀楚」といい「酸辛」というのは、やり場のない索莫[さくばく]たる悲哀の感情のことである。東晋の王忱[おうしん]なる人物は、「阮籍の胸中の塁塊[るいかい]、故[もと]より須[す]べからく酒もてこれを澆[そそ]ぐべし―阮籍の胸のなかに蓄えられた固いしこりは、酒で洗いながす必要があったのだ―」と語っているが、阮籍の酒を評してまことに的確な言葉としなければなるまい。というのも、阮籍の酒に関して、『世説新語』任誕篇はつぎのようないくつかの話を伝えているからだ。 阮籍は母親の葬儀に際しても、またその喪中にも、ふだんと変わらず酒を飲み、肉を食らった。社会一般のしきたりでは、親がなくなれば、儒教の古典のさだめるところに従って、三年の喪に服し、その間、酒を飲んではならぬのはもとよりのこと、肉を食らうことにも制限が加えられるのだが、阮籍はそのようなしきたりを無視したのである。しかしながら、かれの慟哭[どうこく]は深くはげしく、まるで病人のように衰弱の極に達したのであった。 阮籍は母親の葬儀にあたって、まるまるふとった一匹の豚を蒸むし、二斗の酒を飲んだうえ、最後の別れの場にのぞんだ。「窮せり―だめだ―」とたった一言いったきり、わっと号泣すると、そのまま血を吐き、しばらくのあいだぐったりしていた。 阮籍は母親がなくなった際、晋の文王(司馬昭)の席で酒や肉をせっせと口にはこんだ。司隷校尉[しれいこうい]の何曽[かそう]も同席しており、こう発言した。「閣下はおりしも孝のイデオロギーをもって天下を治めてゆこうとしておられる。しかるに阮籍は、親がなくなったというのに、閣下の席で公然と酒を飲み肉を食らっております。海外に追放して風紀を粛正なさるべきです」。 文王はいった。「嗣宗[しそう]はあんなにやつれきっている。君はかれと悲しみを分かちあうこともできぬのに、なんという言い草だ。そのうえ、病気ならば酒を飲み肉を食べるのは、ちゃんと喪中の礼にかなったことなのだ」。阮籍は酒を飲み肉を食らいつづけて涼しい顔をしていた。 司隷校尉は首都圏の警察の総元締めであって、さしずめ警視総監といったところ。嗣宗は阮籍の字[あざな]。司馬昭の言葉は、儒教の古典である『礼記[らいき]』曲礼[きょくらい]篇につぎのようにあるのにもとづく。「喪に居るの礼、頭に創[きず]あれば則ち沐[もく]し、身[からだ]に瘍[できもの]あれば則ち浴し、疾[やまい]あれば則ち酒を飲み肉を食らい、疾止[やめ]ば初めに復[ふく]す」。