「白眼視」の語源は酒飲み思想家の「偽善者嫌い」だった! 中国屈指の個性派思想家グループ「竹林の七賢」筆頭〈酒徒〉の生き様
憎むべき「俗物」の正体
阮籍が貴んだのは、人間の自然な感情とその自然な感情にもとづく真率[しんそつ]な行為であった。『後漢書』の陳蕃[ちんばん]伝につぎのような話がある。 趙宣[ちょうせん]なるおとこ、親を葬ったのちにも墓道を閉じることなく、三年の喪はおろか、墓室のなかで二十年あまりの喪に服し、これぞまことの孝行者との評判がたって、州や郡からのお召しがあいついだ。ところが、いざ調査してみたところ、五人の子供すべてが喪中に生まれていたことが判明した。喪中に夫婦の交わりをもつのは、もってのほかのことなのである。阮籍に先だつことおよそ一世紀、親の死をすら売名に用いようとしたまことにおぞましい猿芝居。阮籍が憎んでやまなかったのは、このような偽善であり、偽善者であった。俗物であり、俗物どもの行為であった。 俗物とは、自然な感情と行為を圧殺するところの礼教に呪縛され、本来の自己を見失った人間のことである。 阮籍は好ましき同志には青眼をもって接し、唾だ棄きすべき俗物には白眼をもって接した。青眼とは普通の目つき、白眼とは上目をつかってあらぬ方向を見ることだという。かれは、「礼は豈[あ]に我輩の為に設けんや―礼の規律はわしらのために設けられたものではあるまい―」とも語っている。里帰りする嫂[あによめ]を見送った阮籍を、「嫂叔[そうしゅく]は問[もん]を通ぜず―嫂と義弟とは挨拶をかわさない―」と『礼記』曲礼篇にあるのをたてにとってとやかく非難したものに投げつけた言葉である。 「阮は方外[ほうがい]の人、故に礼制を崇あがめず」とは、裴楷[はいかい]なる人物が阮籍を評した言葉である。礼教規範が支配するところの世俗が「方」であり、そのような世俗を超越したところが「方外」であって、もとづくのは『荘子[そうじ]』大宗師[だいそうし]篇のつぎの話である。 子桑戸[しそうこ]が死んだとき、仲間の孟子反[もうしはん]と子琴張[しきんちょう]の二人は、その骸[むくろ]を前にして、「嗟あ来あ、桑戸よ、嗟あ来あ、桑戸よ、而なんじは已すでに其の真に反かえりしに、我らは猶なお人たり、猗ああ」とうたっていた。そのことを知った孔子は、こうつぶやいた。「彼は方の外に遊ぶ者なり。丘われは方の内に遊ぶ者なり」。 ともかく、司隷校尉何曽のごときは、阮籍にとって、最も唾棄すべく、白眼をもって接すべき人物であったろう。阮籍が完全に無視したことを思うならば、白眼をもって接するにすらあたいしない人物であったのかもしれぬ。何曽が阮籍に向けて放った非難は、権力者の司馬昭ですら嫌悪をもよおさざるを得ぬほどの、礼教の許容するところをさえ逸脱した刻薄なものであったからである。 *「竹林の七賢」の他の面々にも酒にまつわる逸話が!
吉川 忠夫