「白眼視」の語源は酒飲み思想家の「偽善者嫌い」だった! 中国屈指の個性派思想家グループ「竹林の七賢」筆頭〈酒徒〉の生き様
「三国志」の時代、漢王朝が滅び、既存の権威が崩れゆく中、「竹林の七賢」と呼ばれるアナーキーな思想家たちが活動していた! 強烈な個性揃いの彼らの中で、さらにもっとも激烈なキャラクターで、時の権力者、司馬昭にも一目置かれた阮籍[げんせき]。彼の酒にまつわるエピソードを、『竹林の七賢』(講談社学術文庫)から。 *この記事は同書からの抜粋です 【写真】強烈すぎる個性の思想家「竹林の七賢」
権力者の酒宴で、勝手に飲むは歌うわ
「竹林の七賢」のなかの酒徒といえば、まず第一に推さなければならないのは、やはり阮籍[げんせき]であろう。西善橋墓の磚画[せんが]でも、阮籍は足を投げ出し、左手をつき、右手で盃を口に運んでいる姿に描かれている。『世説新語』からいくつかの阮籍の酒に関する話を拾おう。 (中略) 晋の文王は功業まことに目ざましく、その席は厳粛で王者と見まがうばかりであったが、ひとり阮籍だけはその席であぐらをかいたまま放歌高吟[ほうかこうぎん]し、好きなだけ酒を飲んで平然としていた。(簡傲[かんごう]篇) 晋の文王とは司馬昭[しばしょう]のこと。阮籍は大将軍に就任した司馬昭から従事中郎[じゅうじちゅうろう]の職に召され、歩兵校尉に遷[うつ]ってからも、たえず大将軍の幕府に遊んで宴席に顔を出していたのであった。 阮氏の人たちは酒豪ぞろいだった。仲容[ちゅうよう]が一族のところに出かけてパーティーを開くときには、もはや普通の盃では酒をくまず、大きな甕[かめ]になみなみと酒を盛り、車座になってさし向かいでぐいぐいやった。ときには豚の群れが飲みにやってくることがあったが、さっさと上座に迎えいれ、みんなして飲ませるのだった。(任誕篇) 仲容はやはり「竹林の七賢」の一人にかぞえられる阮咸[げんかん]の字[あざな]であって、阮籍の兄の子である。このようなパーティーに阮籍が出席しなかったはずはあるまい。ただし、阮氏一族とはいっても、阮籍と阮咸たちは道路の南側に住まって「南阮[なんげん]」とよばれ、貧乏人ばかりの南阮の人たちと、道路の北側に住まって金持ちぞろいの「北阮[ほくげん]」の人たちとのあいだには、いくらかぎくしゃくした関係があったようである。 七月の七日、虫干しの日にあたって、北阮の人たちがこれ見よがしに絹物や錦の衣裳をならべると、阮咸は竿[さお]の先に大きな犢鼻㡓[とくびこん]をぶらさげ、「まだ俗っ気が抜けきらないので、ちょっとああやってみたまでさ」、そううそぶいたという。「犢鼻㡓」とはふんどし。ちんちんのあたる部分が犢鼻、すなわち子牛の鼻先のようなかっこうになるのでこの名がある。 「竹林の七賢」のなかにはかぞえられないものの、やはり阮籍の一族の阮脩[げんしゅう]も酒を愛した。阮脩は車は使わずにいつも徒歩で外出し、百文の銭を杖[つえ]の先にぶらさげ、居酒屋につくと、一人いい気分で酔っぱらっていたという。しかしながら、世にときめく貴顕のところには、まったく足を向けようとはしなかったという。