アジア女性初のノーベル文学賞受賞のハン・ガン氏、直近の韓国戒厳令とも共振する代表作2冊を徹底レビュー
12月10日、2024年ノーベル賞授賞式が開催された。ノルウェーのオスロで日本の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が平和賞を、スウェーデンのストックホルムでハン・ガン(韓江)氏がアジア女性初の文学賞を受賞した。被団協を選出した若き委員長のスピーチを聞き、不思議な感慨がわいてくる。被団協とハン・ガン氏は同じ水脈から生まれたものを、それぞれのやり方で抱きしめている、と。犠牲者ではなくサバイバー、トラウマや記憶を語ること、語りの中に潜む苦痛の恐怖と忘却の恐怖のアンビバレンツ、生者の中に死者のスペースを作ること、死者と生者で進む未来。ハン・ガン氏の著作の中から、代表作とされている2冊をご紹介。 【写真】ハン・ガン氏『少年が来る』の書影 選・文=温水ゆかり ■ 過去は現在を助けることができるのか? 光州事件の悲劇を「人間の鎖」のようにつなぐ鎮魂作 【概要】 1980年の光州事件。あのとき、生を閉じた者の身に何が起きたのか。生き残った者は、あれからどうやって生きてきたのか。未来を奪われた者は何を思い、子どもを失った母親はどんな生を余儀なくされたのか。三十年以上の月日を経て、初めて見えてくるものがある――。丹念な取材のもと、死者と生き残った者の声にならない声を丁寧に掬いとった衝撃作。著者渾身の物語。 2024年12月4日の深夜、PCをチェックして息を呑んだ。韓国に非常戒厳が出ている。ちょうど戒厳令下の光州事件に材を取った『少年が来る』を読んでいる最中だった。2014年の12月に、いきなり1980年の5月が直結する。 韓国は光州事件から7年後、自分達の手で民主化を勝ち取ったのではなかったのか。政治活動や言論・出版が軍の統制下におかれ、兵士達が市民に銃口を向けるという悲劇が再び繰り返されるのだろうか。まさかこの21世紀に。 柵を乗り越え、警察の封鎖を破り、なにがなんでも議場に到達しようと決意した議員達。戒厳令は解除要求決議案が満場一致で可決されたことで明け方に無効化される。民主主義は多数決というが、それは手段や結果であって、民主主義の根幹は“手続き”であることを改めて教えてくれた韓国の民主主義だった。 ■ 過去のトラウマに向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにする強烈な詩的散文 『少年が来る』はハン・ガン氏が2014年に発表した作品である(邦訳2016年刊)。1980年、戒厳軍が民主化を要求する市民達に向け無差別に発砲する中、理不尽に命を落とした者、からくも生き延びた者達の姿を鎖状に繋げる。 と書いて、はっと気づく。登場人物が鎖状に繋がっていくこの小説の構造は、圧政や権力に抗う者達が腕を組み合って作る「人間の鎖(ヒューマンチェーン)」を模しているのではないか。 『少年が来る』は人物がリレー式に代わる六章とエピローグから成っている。冒頭の章に「君」という二人称で登場するのが、タイトルの少年、トンホのことだ。蛇足ながら「君」とか「あなた」という二人称は(文学的価値は別として)読みにくいことが多い。が、これはストンと落ちる。「君」という親愛の呼称が、少年を慈しみに満ちた透明の膜でくるんでいるように感じるからだ。 光州に住む少年トンホは、背丈順に並ぶ教室で、いつも一番前に座るような男の子。とても中学三年生には見えない。街が市民デモと戒厳軍の衝突で混乱する中、「君」は自分の家に間借りする友達とそのお姉さんを探して、遺体を並べた道庁の廊下に足をのばす。 血の付いた顔をおしぼりでぬぐい、曲がった腕をなんとかまっすぐにしようと立ち働いていたお姉さんが「君」に言う。「病院の霊安室にはもう置き場がないんだって」「これから先は全部の遺体がここに運ばれてくる」「君、時間があったら今日だけ私たちの手伝いをしてくれない?」 こうして少年は、スピア女子校の三年生であるウンスク姉さん、雇い主が家族で避難して職場をなくしたブティックの裁縫師ソンジュ姉さんの“遺体介抱”(←もちろんこんな言葉はない。でもそう言いたくなる)のチームに加わる。 姉さん達は二人とも、輸血用の血液が足りなくて多くの人が命を落としているという街頭放送を耳にし、病院に行って献血。なりゆきで市民自治下にあった道庁の遺体係になったのだという。 「君」は道庁でいちばん忙しそうで、死臭を消すためのロウソクがもっとほしいと言うと、すぐに調達してきてくれるハンサムなソウル大のチンス兄さんとも知り合う。 ハン・ガン氏の叙述は、まったくもって素晴らしい。歴史的事実を扱いながら、例えばノンフィクションが外形を示し、細部を取り出していくのとはまったく逆のやり方。 銀杏の木、雨の予感、群衆のざわめきにまじる泣き声、ひっきりなしに運びこまれる遺体、漂う死臭、飲料の空き瓶に挿したロウソク、膨れあがる体を覆いきれなくなった水玉模様のギャザースカート、のぞいた足元のきれいなペディキュア、市民達で営む合同追悼式の模様を拡声器で聞きながら、少年が空色のトレーニングパンツ越しに感じる階段の冷たさ。 軍による虐殺などとは一言も書かず、目が捉えたもの、耳や鼻が捉えたもの、皮膚が感じ取ったものの描写を繊細に重ねながら、同胞が同胞を機械的に排除していくという非情を伝える。 スウェーデン・アカデミーは、ハン・ガン氏へのノーベル文学賞授与の理由を「過去のトラウマに向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにする強烈な詩的散文」とした。なんと適確な評だろう。