アジア女性初のノーベル文学賞受賞のハン・ガン氏、直近の韓国戒厳令とも共振する代表作2冊を徹底レビュー
■ 2016年「マン・ブッカー国際賞」受賞作。欲望、死、存在論などを描く連作短編集 【概要】 ごく平凡な女だったはずの妻・ヨンヘが、ある日突然、肉食を拒否し、日に日にやせ細っていく姿を見つめる夫(「菜食主義者」)、妻の妹・ヨンヘを芸術的・性的対象として狂おしいほど求め、あるイメージの虜となってゆく姉の夫(「蒙古斑」)、変わり果てた妹、家を去った夫、幼い息子……脆くも崩れ始めた日常の中で、もがきながら進もうとする姉・インへ(「木の花火」)――。3人の目を通して語られる連作短編集。 『菜食主義者』はこんな書き出しで始まる。 「妻がベジタリアンになるまで、私は彼女が変わった女だと思ったことはなかった」。 映画の文法に、“フィルム開始から3分以内に登場人物達の関係を観客にわからせろ”というものがあると聞いたことがある。それにちなめば、この書き出しの一行で、夫の性格がわかるというもの。オーヘイとゴーマンの臭いがする……。 中肉中背、長くも短くもない髪、個性的に見えるのを恐れるかのような地味な服装。男が彼女と結婚したのは、特別な魅力がないのと同様、特別な短所もないように思われたからだった。これなら自分を魅力的に見せる必要がない。気楽だった。 唯一変わった点があるとすれば、ブラジャーをつけるのを嫌がったこと。交際期間中は自分に性的な信号を送っているのかと興奮したが、そのような気配はない。怠惰なのか無神経なのか。男は理解に苦しむが、それだけのことだった。 そんな妻がある明け方、冷蔵庫の前に立っている。ギョッとして何をしているのか問い詰めると「夢を見たのと」と言う。夫が朝起きると、妻は昨夜の姿のまま冷蔵庫の前にいて、ゴミ袋にさまざまなものを放り込んでいた。 しゃぶしゃぶ用の牛肉、豚バラ肉、大きな牛足 ぶつ切りの鶏肉、妻の母が送ってくれた下ごしらえ済みの高価なウナギ、イカや干しイシモチ、冷凍餃子のほか中身の分からない数々の包み。気でも違ったのかと夫がいきりたつと、妻はまたぼんやり言う。「夢を見たの」。 妻の名はヨンヘ。彼女の見た夢はこうだった。暗い森を行くと明るい納屋があり、入ると無数の肉がぶら下がっている。まだ赤い血を滴らせている肉もある。 ヨンヘは落ちていた肉を拾って食べる。ぐにゃっと柔らかい牛肉を上あごと歯ぐきにこすりつけ、赤い血を塗りつける。手も真っ赤だ。血だまりに自分の顔が映る。よく知っているようで、よそよそしい顔。その生々しくて、ぞっとするような嫌な感じをヨンヘはうまく説明できないと言う。 その夢に囚われ、一切の肉を拒否し始めるヨンヘ。料理上手だったのに、夫にも今後肉料理は一切出さないと言う。セックスも拒否し始めた。夫の体がにおう。毛穴の一つ一つから肉の臭いがするという。 ふと思い出す。海外に住むベジタリアンの知人に聞いてみたことがある。「味噌汁の出汁がカツオ節などでもだめなの?」。ダメだった。日本に帰ってくると、みんなの毛穴から魚の臭いがすると言う。人間の最も古い器官は、最も鋭敏な器官でもあるのだ。 ヨンヘはだんだんやせ細っていく。姉が引っ越した広いマンションに親族が集まったとき、腹に据えかねたヨンヘの父は娘を取り押さえ、むりやり口に酢豚をねじ込む。男達の怒号と女達の怯えた叫声が響く中、ヨンヘは手首を果物ナイフで切る。血が噴き上がる。 ■ 形を変えた人間の欲望。言葉の種は世界へ飛散する 本書は短編を重ねて長編にする連作形式で、別々の時期に書かれたものらしい。夫が「変わった妻」に愛想を尽かしそうになる(実際オーヘイにゴーマンに愛想を尽かす)第一話、姉の夫である芸術家(ヴィデオアーティスト)がヨンヘの肌いっぱいに描く花の絵に刺激されて交接する不適切で官能的な第二話、そして第三話では郊外の精神病院に、親族にも見捨てられたヨンヘを訪ねる姉の姿が描かれる。 ヨンヘはナムルや果物を持って見舞いに訪れた姉に切々と訴える。「逆立ちをしたら、わたしの体から葉っぱが出て、手から根が生えて……土の中に根を下ろしたの」。股から花が咲こうとしたので股を広げたの。「わたし、体に水をやらなきゃ」お姉さん、わたしは食べ物はいらないの。「水が必要なの」。 ものすごい力で点滴を拒否し、ついに医療チームから見放された妹。彼女をソウルに移送する救急車の窓から、姉は雨に濡れた木の葉が午後の日差しに生まれ変わったように輝く夏の森を見つめる。滴る緑に託した再生の祈りは届くのだろうか。答えを宙吊りにしたまま、救急車は遠ざかる。 肉は暴力と流血の象徴だろう。しかし肉を貪ることと、花や樹に化身して自分を浄化しようとする夢想の間にイメージの差はあっても、賢愚の差はあるだろうか。どちらも両極に振れた地上の人間の欲望のように見える。 本書は特別市ソウルを囲む京畿道で有害図書に指定されていたと聞く。ノーベル文学賞受賞効果でそれも解除に。権力は言葉の種やそれらが飛散してどこかに根を下ろすことを恐れる。有害図書指定だったことは、むしろ誇りというべきかもしれない。 ※「概要」は出版社公式サイトほかから抜粋。
温水 ゆかり