アジア女性初のノーベル文学賞受賞のハン・ガン氏、直近の韓国戒厳令とも共振する代表作2冊を徹底レビュー
■ 他人には隠せても自分には隠せない、自罰の感情と込み上げる怒りの渦 戒厳軍による弾圧は日を追って激しくなっていく。収容しきれなくなった遺体は、尚武館の講堂に並べることになり、新たに運び込まれる人のために柩と柩の間はぎゅうぎゅうになる。「君」は思う。「まるでここに集結しようと約束し合った群衆のようだ」と。 家族が「君」を迎えに来る。母さんは袖を掴んで帰ろうと言う。三浪中の兄さんは、機関銃と戦車を持っている精鋭部隊の戒厳軍が、朝鮮戦争時代のカービン銃しか持たない市民軍を怖がるはずもない、タイミングをみていっせいに襲いかかるはずだと。 「君」はいったん家に帰るも、再び尚武館に戻る。そんな「君」にチンス兄さんが言う。「今夜軍人が入ってくる」。「ここは六時に門を閉める。そしたら君は家に帰れ」「六時以降は誰もここに居ては駄目だ」。 「君」には、どうしても呑み下せない記憶があった。ウンスク姉さんには、デモ隊の中にチョンデを見たと言っている人がいると話したけれど、チョンデの姿を最後に見たのは、誰でもない、実は自分だった。 あの日、「君」とチョンデは手を取りあってデモ隊の熱気の先頭にいた。銃声と同時に手が離れる。そしてチョンデが脇腹に銃弾を受けるのを見た。 「君」は傷ついたチョンデをその場に残して路地に駆け込む。路地から飛び出して、知人や家族を救おうとした人々もいたが、姿の見えない狙撃手によって、ことごとくくずおれた。倒れた人達に誰も駆け寄らなくなった頃、兵士達がおもむろに横たわった人々を引きずって回収し始める。 この冒頭章のラストシーンの一言は雷だ。軍人の見張っていない道を歩いて山を越え、遠くから尚武館に息子と孫娘を探しに来た老人。案内した「君」は、老人が木綿の布をめくってはしきりに頭を振り、その両目がこの世で最もむごたらしいものを目撃したかのように虚ろになっていくのを見る。 老人のその横で、「君」は他人には隠せても自分には隠せない自罰の感情と込み上げる怒りの渦に、自ら身を投じるのだ。罪名、友人遺棄罪。 「絶対に許すものか」「何一つ許したりするもんか。この僕だって」 ■ サバイバーになって生き延びようとも、誰のところにも少年は「来る」 この決然たる幕引きの後の各章は、少年とかかわりのある登場人物達に光が当たる。少年とはぐれて命を落としたチョンデの霊のあどけない語り。女子校の夏の制服を着て“遺体介抱”に当たっていたウンスク姉さんの後日譚。 チンス兄さんと同房で、ささやかな交流があった男が伝えるチンス兄さんの姿。労働運動に足をつっこみ、その後身を潜めるようにして生きてきた裁縫師ソンジュ姉さんの半自伝、閉門したら必ず自分の元に戻ってくると信じて待っていた「少年」の母の慟哭。 ウンスク姉さんは編集者になっていた。任務に邪悪な喜びを感じているような官憲に作家の居所を聞かれ、知らないと答えると、「このくそアマ」と顔に七回のビンタをくらう。毛細血管が切れ、口内に血の味が広がった。 その一方で、うまいこと検閲をすり抜けた戯曲集もあった。その芝居が上演される中、髑髏を抱きしめた少年役者に、ウンスクは思わず「トンホ」と呼びかける。彼女は溢れる熱い涙をとめることができない。 市民軍の一人で逮捕後チンス兄さんと同房だった男は、チンスが女性的な顔立ちだったために、「普通とは違った拷問」を受けていたと話す。想像はつく。ミソジニーの男社会で同性をなぶろうと思ったら、創意工夫に富んだ肉体的拷問のメニューに女の役割を加えることだ。 あの日、チンスは子供達にこう言った。軍が入ってきたらすぐ降伏しろ、子供達のことは殺さないから。その言葉通り、揃って軍の前に出ていった子供達。その子達に向かって歯をむきだしに「いかす映画みてえじゃないか」と、銃弾を浴びせた将校。自死したチンスのかたわらには、遺書と一緒に、揃って撃たれて行儀良く並んだ子供達の写真があったという。 裁縫師ソンジュ姉さんの半自伝でもある章は、研究者に証言を求められたことで、長年封印し隔離してきた記憶の蓋を開けるシーンの描写がすさまじい。引用をはばかるほど暴力的な女性に対する拷問。ソンジュは体の奥から二年も血を流し続け、永久に子供が持てない体になった。 彼女は釈放後、死ぬために光州におもむいたと言う。そこで見た一枚の写真。道庁の中庭に捻れた体で横たわるトンホ。ソンジュは息ができなくなる。そして、少年にこう語りかけるのだ。「その瞬間、君が私の命を助けたのよ」「心臓が破けるような苦痛の力、怒りの力で」。 ある者は顔を腫らすビンタの暴力に耐え、ある者は自ら命を絶ち、ある者は怒りを溜めこんで誰とも打ちとけずにひっそりと暮らし、トンホの母ちゃんは少年を埋葬した後「うちの息子を返せ。殺人鬼の全斗煥を八つ裂きにしろ」と絶叫した。 サバイバーになって生き延びようとも、誰のところにも少年は「来る」のである。ハン・ガン氏はこう解題する。『少年が来る』の「来る」は、少年が現在に向かって近づいてくる、 どんどん近づいてきて現在になることから付けたタイトルだと。 ハン・ガン氏は「聞くノーベル文学賞」と言われる記念講演でこうも語っていた。「人間の残酷性と尊厳が極限の形で同時に存在するとき、その時空間を光州と呼ぶとき、光州は一つの都市を指す固有名詞ではなく普通名詞になる」。 かねがね思っていた。ノーベル文学賞を授与される作家には必ずローカル性(周縁性)があると。その年のノーベル文学賞を誰が獲るかのお祭りに参加したかったら、“ローカルを探せ”と。 ローカルが翼を持って普遍に飛び立つとき、その文学的営為は世界文学として評価されるのだと思う。南アフリカ出身のJ・M・クッツェーしかり、トルコのオルハン・パムクしかり。 過去と現在、死者と生者の間に橋を架け、“過去は現在を助けることができるか? 死者は生者を救うことができるか?”というハン・ガン氏の力強くも肯定的な問いは、自身が愛の小説と呼ぶ最新刊『別れを告げない』でさらに進化していることをつけ加えておきたい。