90代女性が振り返る、戦後の記憶。太平洋戦争の後、19歳で小学校教員になった。親や家を失った子どもたちと、希望を忘れずに過ごした日々
◆器楽合奏で思いやりの心を育てる やがて子どもたちは、5年生に進級した。冬休みが近づいたある日、「お正月に先生の家に遊びに行っていい?」と聞かれたので、「いいよ。電車に乗って、気をつけてきてね」と言った。 最近であれば子どもたちだけで先生の家に行くなんて、と管理責任が問われるのかもしれないが、当時はゆるやかで、校長先生に報告しても「いいですよ」の一言だった。 私の住まいは、大阪府南部の自然豊かな町にあった。すぐそばの山からはいつも緑を揺らす風が吹き、麓の石川ではシラサギやカモ、カワセミといった鳥が見られる。後ろには金剛山脈が連なっていた。 「先生、おめでとうございます」 なんと来るわ来るわ。20人以上は来ただろうか。私の両親は、この日のためにすき焼きを用意していた。娘が受け持つ子どもたちが、わざわざ家まで足を運んでくれた、特別な日と思ったのだろう。 普段、家事を一切しない明治生まれの父が、この日はかんてき(七輪など、木炭を使用するコンロ全般)の炭をおこしてくれた。 「お昼ごはんの用意をしている間、みんなで観心寺へお参りしてきて」 と言うと、子どもたちは4キロ先の観心寺まで一斉に駆け出し、無事に帰ってきた。それから、すき焼きをもりもり食べた。子どもたちが帰ったあと、6畳の居間の畳には、かんてきの焼け跡が色濃く残った。
私は、器楽合奏の指導に情熱を燃やしていた。ハーモニカ、鍵盤ハーモニカ、木琴、アコーディオンで主旋律を奏で、大太鼓、小太鼓、シンバル、タンバリン、カスタネット、トライアングルなどでリズムをとる。クラス全員でひとつの曲を仕上げることで、友情を深めていくことを願った。 実際、子どもたちも「いままでできなかったことができるようになる」ことに喜びを見出し、成長しているように感じた。試行錯誤を重ね、次の学びに繋げるだけでなく、互いの音に耳を澄ませ、合わせることで、思いやりの心が育っていったように思う。毎日大阪会館で開かれた器楽合奏のコンクールにも参加し、得難い体験をすることができた。 それから5年後のことである。教え子のIくんが発起人となり、はじめての同窓会が懐かしいK校で開かれた。当時私は72歳。子どもたちは60歳を過ぎていた。会場には懐かしい曲が流れている。あのときのコンクールで演奏した曲だ。 「先生、私コーラス部に入っています」 「僕はギターを弾いて楽しんでいます」 「お城の塔をみんなで歌いましょう」 みんな器楽合奏のことをよく覚えてくれていた。音楽を、その後の人生の楽しみにしていることも嬉しかった。 友情はなにかを動かし、なにかを変える。風神が持つあの大きな風袋に、みんなで一緒に情熱や思いを吹き込んで、大きな風を起こすのだ。人生が行き詰まったとき、その風袋はきっと役立つことがある。
阪野光子
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