激戦地アッツ島とキスカ島を物語る日米の沈没船、発見の裏側 今も帰れぬ祖先の地に先住民が同行
24年7月には第二次大戦時の日本の徴用船などが見つかる、北太平洋アリューシャン列島
北太平洋のアリューシャン列島の西部にある米アラスカ州のアッツ島とキスカ島は、第二次世界大戦中の激戦地として知られる。2つの島は、真珠湾攻撃から半年後の1942年6月初旬から1年近く、日本軍に占領されたが、アッツ島は1943年5月に米軍とカナダ軍により奪還された。この戦いは「アッツ島の戦い」として知られ、双方合わせて3000人近くが死亡し、数千人が負傷した。その多くは極めて厳しい寒さが原因だったとされている。キスカ島の日本軍も同年7月末までに撤退した。 ギャラリー:米軍とカナダ軍に奪還されたキスカ島や別の沈没船など 写真5点 海洋考古学者のチームが2024年7月にアッツ島沖を調査したところ、第二次大戦中に沈んだ日米の船3隻を発見した。また、2018年にキスカ島沖で行われた調査では、日本軍の潜水艦や米軍の爆撃機の破片なども見つかっている。 アリューシャン列島には、何千年も前から先住民ウナンガン(アリュート、アレウトとも)が住んでいる。アッツ島は米国(50州)最西端の地で、キスカ島はアッツ島から東に約300kmのところにある。 だが現在、アッツ島とキスカ島は無人島となり、米国では「忘れられた戦場」と呼ばれている。消えゆく戦争の痕跡を記録する考古学調査隊のほかには、訪れる人もほぼいなくなった。
祖先の島での水中探査
2024年7月、米イーストカロライナ大学の海洋考古学者ジェイソン・ラウプ氏と非営利団体シップス・オブ・ディスカバリーのドミニク・ブッシュ氏が率いるチームが、研究船ノースマン2号に乗ってアッツ島を訪れた。目的は、沈没船や海中に沈んだ遺物の探索だ。 ウナンガンのカワランギン族の出身で、米アメリカン・インディアン・アーツ研究所の学生であるウォルフガング・トゥティアコフ氏は、文化コーディネーターの1人としてチームに参加した。氏の主な任務は、調査遠征の科学的な発見について、特に部族の歴史の観点から文化的な背景を付け加えることだった。 トゥティアコフ氏にとってこの航海は、個人的な巡礼の旅でもあった。「初めて島が見えた瞬間は本当に感動的で、文字どおり息をのむようでした。船には20人ほど乗っていましたが、少なくとも5分間は誰も何も言いませんでした」と氏は言う。 1942年6月3日にアリューシャン列島のアマクナック島のダッチハーバーが日本軍の爆撃を受けた後、米国当局はアッツ島をはじめとする列島の先住民約1000人をアラスカ州南東部の粗末な小屋に移住させた。トゥティアコフ氏の祖父もその1人だった。 日本軍に占領されたアッツ島では約45人のウナンガンが捕らえられ、捕虜として日本に連行された。終戦まで生き延びられたのは、そのうちの約半数だった。 アッツ島の戦いが終わっても、ウナンガンの人々が島への帰還を許されることはなかった。その後、米軍が島を基地として利用していたが、やがて去っていき、最後に残った沿岸警備隊の基地も2010年に閉鎖された。また、米軍は島の一部を有毒な化学物質で汚染した。 アッツ島は現在、米国のナショナル・モニュメントの一部となっており、訪問することは違法ではないが、元住民やその家族が住むことは禁じられている。だからトゥティアコフ氏には、この辺境の島を訪れること自体が重要だった。 「神秘的な魅力がある島でした」と氏は言う。「島は巨大で、山や、ツンドラや、ごつごつした岩だらけの海岸がありました。海岸を埋めつくすように生えている草は、緑色どころかネオングリーンで、ユニコーンが出てきそうな雰囲気でした」 調査チームはアッツ島周辺の海域を11日間探索した。アリューシャン列島は嵐と強風、雨と霧で悪名高いが、ラウプ氏は、この時は珍しく穏やかな天候に恵まれたと振り返る。 彼らは最新の水中探査技術を駆使して、アッツ島の周辺海域で戦時中の沈没船3隻を発見し、記録した。そのうちの2隻は、日本軍の駐留部隊に物資を運んでいた日本の徴用船で、1隻は、米軍が島を奪還してから数カ月後に防衛を強化していた時期の米国のケーブル敷設船だとみられる。