片岡義男の「回顧録」#4──Bobby’s Girlが名付け親~ 『ボビーに首ったけ』とヤマハRD250
■国産初のレーサーレプリカのDNAを受け継ぐモデル RD250(1973年)
RD250のデビューは73年。エンジンや車体の基本部分はDX250と同様ながら、RDのエンジンには新たに7ポートトルクインダクションが採用された。このシステムは燃焼室内に残留した排ガスが吸気を妨げるという2サイクル特有の現象を新設されたポートで掃気効率を高めて低減する機構で、ミッションにもよりスポーティな6速が奢られていた。74年のマイナーチェンジでは、排気音低減のためにマフラー長を40㎜延長、シリンダーヘッドにも防振ゴムが装着されるなど、実用面での性能が高められた。
■スタイルを全面的に刷新した2代目モデル RD250(1976年)
76年にフルモデルチェンジを実施したRD250は、直線基調の燃料タンクを装着したヨーロピアンスタイルに変貌。足回りは前後ディスクブレーキでグレードアップされ、エンジンの冷却性や騒音・振動面の性能向上も図られた。また、翌77年のマイナーチェンジでは、カラーリングの変更とともにシート高が5㎜下げられている。年式からみて小説に登場するRD250はおそらくこの世代だろう。
■キャストホイール装着の最終モデル RD250(1979年)
79年に登場した最終モデルは、2代目の直線的なスタイルから一転、丸みを帯びたラインが印象的な姿に生まれ変わった。足回りには当時流行していたキャストホイールも装着。エンジンのスペックはほとんど変わっていない(RD250は初代から最終型までずっと30ps)が、ポート形状の変更などの改良が施されていた。兄貴分のRD400のほうはRD400Fデイトナとして、ほぼ国内仕様と同じスペックのまま北米に輸出されていた。 RD250/400と同様、70年代の同クラスのオートバイは250ccと400㏄で車体を共用するのが一般的だった。車体を共用することでコストが下げられるというのが主な理由だが、250ccユーザーから見れば400ccと同じ堂々とした見栄えが手に入るというメリットもあった。しかしこの手法の残念な点は、250ccの動力性能が400㏄に比べて著しく低下してしまうことだった。RD250(30ps・150kg)とRD400(40ps・153kg)を比べると、パワーウエイトレシオでいえば250ccが圧倒的に不利になる。これはホンダCB250T/CB400Tといった他メーカーの主力車種でも同じで、とくに2サイクルに比べてアンダーパワーな4サイクルでその影響が顕著だった。そしてこれらの鈍重な4サイクル250ccの存在は、動力性能で優位に立つ2サイクル勢にとっては追い風だった。RD250やスズキRG250、カワサキKH250といった各社の2サイクルモデルは、明らかに同時期の4サイクル250ccよりも加速性能に勝り、軽快な乗り味を実現していたからだ。 しかし、やがてカワサキからこの手法の真逆を突いたモデルが発表された。79年発売のZ250FTとZ400FXで、カワサキはZ400FXを重厚な4気筒モデルと位置付ける一方、Z250FTは250cc専用設計の車体を持つ軽快なスポーツツインに仕上げていた。専用設計により250ccの軽さや燃費の良さを前面に押し出す手法は80年1月発表のスズキGSX250/400などにも広まり好評を博した。逆に動力性能面の優位性が低下した2サイクル250ccモデルは、折からの排ガスの汚さや燃費の悪さが指摘され、その存在価値が疑問視され始めた。 だが、環境問題や騒音問題で世間がアンチ2サイクルに走ったとき、ヤマハから彗星のようにデビューしたモデルがあった。RZ250である。RZ250の輸出仕様名はRD250LC、つまりRZは事実上RDの4代目モデルということができる。RD250に比べ5psも大きい35psの最高出力を引っ提げて登場したRZ250は、国産250cc初の水冷エンジンを搭載。マフラーにはレーサーと見間違えるようなチャンバータイプが採用され、足回りにも最新のモノクロスサスペンションが奢られるなど、従来の常識では考えられなかった性能と装備を誇っていた。その進化の度合いはあたかも10年先のモデルが突然目の前に現れたかのような衝撃をライダーたちに与えた。そしてこの1台の登場によって消えかかっていた2サイクルの灯は復活、その後のレーサーレプリカ・ブームへとつながっていく。もしRZ250が登場していなければ、日本の2サイクルスポーツはおそらく20年早く消滅していたに違いない。初のレーサーレプリカであったYDS-1の血脈は、レーサーTZ250の技術を盛り込んだRZ250に受け継がれ、再び日本のオートバイ業界を震撼させたのである。