片岡義男の「回顧録」#4──Bobby’s Girlが名付け親~ 『ボビーに首ったけ』とヤマハRD250
YAMAHA RD250ミニヒストリー
片岡義男氏の小説『ボビーに首ったけ』に登場するヤマハRD250は、当時の若者たちが好む「速いオートバイ」を象徴する一台であり、最もヤマハらしさが現れた2サイクルスポーツだった。〝4サイクルのホンダ〟〝2サイクルのヤマハ〟という表現を、オートバイ好きの方なら一度は耳にしたことがあるだろう。それぐらいヤマハは2サイクルエンジンの普及と性能向上に大きな役割を果たしてきたメーカーだった。 ヤマハが2サイクルのリーディング・カンパニーとして脚光を浴びるきっかけになったのは、1963年の全日本自動車ショーで発表したオートルーブ(分離給油)の開発だろう。64年にヤマハがYA6で実用化したこのしくみは、それまでガソリンに直接潤滑オイルを混ぜていた(混合給油)2サイクルのオートバイから面倒なオイル混合の手間を省くとともに、オイルの消費量も抑える画期的なシステムだった。小型・軽量・パワフルという特性に加え、4サイクルに迫る利便性も手に入れた2サイクルエンジンは、その後小排気量車を中心に積極的に採用され、70年代以降の原動機付自転車の爆発的普及につながった。 世界GPの舞台でも、ヤマハは早い段階からモータースポーツにおける2サイクルの可能性を追求してきた。新開発のロータリーディスクバルブ方式とオートルーブによる強制潤滑方式を採用したレーサーRD56を世界GPに投入したヤマハは、ホンダ製4サイクルとの熾烈な戦いの末、64・65年の世界GP250ccクラスでメーカータイトルを獲得。来るべき世界GPの2サイクル全盛期を予感させた。やがて、高性能なスポーツユニットとして評価された2サイクルは、80年代になるとレーサーレプリカ・ブームを巻き起こし、隆盛を極める。現在では環境への配慮からほぼ絶滅してしまったが、ヤマハが育てた2サイクルの技術は明らかに一時代を築いた。そのヤマハが70年代に生粋のロードスポーツとして世に送り出したのがRD250であった。 RD250のルーツは、50年代に開催されていた浅間火山レースに参戦したYDレーサーに求めることが出来る。55年の弟1回浅間火山レースに市販車YA-1をベースとするYAレーサーで参戦したヤマハは上位を独占。57年の第2回では250ccクラスに参戦したYDレーサーも1位~3位を独占した。北米市場での知名度向上を狙ったヤマハは、翌58年にはアメリカのカタリナGPに参戦。天才ライダーと謳われた伊藤史朗の活躍により、見事6位入賞を果たす。そしてこのYDレーサーの市販モデルとして59年に発売されたのが、RD250のルーツともいえるYDS-1(発売当初の名称はスポーツ250S)だった。 国産初のレーサーレプリカといえるこのオートバイはYDレーサーのエンジンを20psまでデチューンしてクレードルフレームに搭載。ミッションには国産初の5速が採用されるなど、実用車然としたそれまでのオートバイとは一線を画していた。YDS-1はその後、YDS-2、YDS-3と進化。そのDNAはDS5E、DS6、さらにレーサーTD譲りの車体とエンジンを採用したDX250を経て、RD250に受け継がれることになる。