戦禍3年目のウクライナ、ロシア軍が行う占領統治の実態。妊娠8ヵ月の娘を喪った母の悲しみと、ウクライナ軍兵士の息子の存在を隠した夫婦【現地ルポ】
◆孫との再会を待ちわびて 2022年の侵攻後、ウクライナ・ロシア間にあった国境検問所はすべて閉鎖された。だが1ヵ所、北部の町スーミィのポクロフカ検問所だけは、ウクライナのパスポートを持つ市民が今も、ロシア側から越境することができる地点だ。 南部や東部のロシア軍支配地域から逃れてきた住民は、ロシア経由でこの検問所を目指す。ロシア側の検問所では警備官と情報機関が越境するウクライナ人を尋問するものの、通過自体は認められている。ほとんどが高齢者や女性、子どもであることもその理由のひとつだ。 毎日、数十人が、国境の2キロの砂利道を歩いてウクライナ側に入る。越境してきた帰還民は、支援団体のミニバスでスーミィ市内に向かい、警察が記録調書をとる。 2月下旬、国境検問所から帰還民を運ぶミニバスに、私も同乗させてもらった。この日の午後、国境を越えてバスに乗り込んだのは7人。隣に座る夫の手をしっかりと握りしめていたのが、イリーナさん(64歳)だった。
彼女は、夫のアナトリーさんとともに、ウクライナ中部にいる子や孫と再会できる日を待ちわびていた。 「私たちは2年間、待ちました。春が来れば私の町も解放される、次の秋にはきっと……そう信じ、希望を捨てませんでした。でも夢はかなわぬまま、時間だけが過ぎていきました」 イリーナさん夫婦は、南部ヘルソン州のアゾフ海に面した保養地で、小さな民宿を営んでいた。夏には各地から行楽客がやってきた。侵攻前、収入は夏のシーズンだけだったが、老夫婦がつつましく生活するには十分だった。 2年前のロシア軍の占領で、すべてが一変した。侵攻直後、ウクライナ軍兵士だった息子のドミトロさん(42歳)は、戦闘任務のため所属部隊に向かった。イリーナさん夫婦は逃げるあてもなく、しばらく様子を見るしかなかった。 突然の侵攻にウクライナ軍は反撃できず、あっという間に南部と東部の町や村が制圧された。
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