失敗しても支持される「吉村洋文」とは何者だったのか「敵多き普通の男の苦悩」
玉川徹、西野亮廣、ガーシー、吉村洋文、山本太郎――時に大衆を熱狂させ、時に炎上の的になるメディアの寵児たちから、なぜ目が離せないのか? 【写真】日本社会で幼稚な主張が「正論」だと人気を集めている深刻実態 注目の新刊『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』では、彼らは何者なのか、その単純かつ幼稚な「正論」がもてはやされる日本社会の問題に迫る。 (本記事は、石戸諭『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』から抜粋・再編集したものです)
敵か味方か
2020年に大阪のニュース番組でコメンテーターを務めるようになってからというもの、私のもとには定期的に異なる"極端"な意見が寄せられるようになった。一つは「あいつは維新に寄りすぎている。何にもわかっていない」で、もう一つは「あいつは反維新。何にもわかっていない」というものだ。その派生系に「どうせ大阪のメディアでは維新の政策を批判できない」といった俗説もある。実際に出ている側、報道側からするとそんなことはまったく無くて気骨ある記者も東京と同じように"一定数"いるのだが、関西の外ではどうも知られていないか、知ろうとする気概もないせいかインターネットで流れるコタツ記事の影響で俗説に流される人が多いことがよくわかった。 いずれにせよ共通しているのは、彼らから見て私が物事をわかっていないということ、そして文面から激しい怒りを感じることだ。維新はどうにも一部とはいえ人々の感情を刺激する存在になっている。2025年に開催される大阪・関西万博の是非も刺激に拍車をかけている。 私のスタンスはさほど特別なものではない。地域政党の大阪維新の会、国政政党の日本維新の会ともに「普通の政党」になってきており特別に扱う必要はない。彼らの政策に賛成することはさほど多くはないので否と思えば批判はするが、この三十数年で致命的なまでに冷え込んだ関西経済の立て直しは人々の生活のためにも必須であり、そのために必要な政策には賛成はする──だ。おそらく、こうした立場が一部とはいえ人々の感情を刺激して両極端な反応を引き起こす。 維新に対する両極端な反応は、新型コロナ禍を経て、維新の中心人物へと確固たる地位を固めた大阪府知事・吉村洋文とも重なっている。否、むしろ選挙の強さ、漠然とした評価と強い批判が渦巻く吉村という存在は、現在の維新という政党を象徴している。 吉村、そして維新には大きな謎がある。それは吉村本人や維新に反対する人々、あるいは府外の人々には新型コロナ対策、大阪・関西万博で致命的な「失敗」が続いているように見えるにもかかわらず、足元からは吉村を評価する声が多いという事実だ。「大阪府民」という主語で「何もわかっていない」論を繰り出す人々はいまだに後を絶たない。党派性は目を曇らせる。