建築から分かる日本と中国の近代化の違いとは? 「建築モダニズム」と「社会モダニズム」
近代建築と洋風建築
一昨年、雑誌「ひととき」(2020年5月号)において鈴木禎次(「東海の辰野金吾」と呼ばれた建築家)の特集が組まれ、僕も協力したのだが、編集者は、日本における「近代建築(モダン建築)」を、明治大正期の「いわゆる洋風の建築」ととらえていた。それは今の一般的な雑誌の傾向であるが、実は建築家にとってはかなり違和感があるのだ。建築家は「近代建築」を、主として昭和以後の、バウハウスやル・コルビュジエなどによる「機能主義」の建築、すなわち装飾や様式のない、工業的につくられる「モダニズム(近代主義)」の建築ととらえる傾向がある。少しさかのぼっても、クリスタルパレス(1851年、ロンドンの第一回万国博に現れた展示館)のような鉄とガラスの構造物、あるいはアール・ヌーヴォー(「新しい芸術」の意味)以後の自由な装飾スタイルの建築を含めて近代建築(モダン・アーキテクチャー)という。それが世界的な常識である。 しかし日本では建築学会も、西洋の旧い様式にのっとった洋風建築を含めて、明治以後の建築をすべて「近代建築」の範囲に入れているので、そういった齟齬が生じるのだ。 建築家ふうにいえば、明治日本にまず取り入れられたのは近代建築ではなく、洋風建築であり、その最初の教師がイギリス人ジョサイア・コンドルであり、工部大学校(のちの東大工学部)で教えた第1期生の辰野金吾(東京駅を設計)や片山東熊(赤坂迎賓館を設計)が、日本最初の建築家であった。つまり建築家とは、洋風建築の高等教育を受けた学士であり、伝統的木造建築の専門家は、どんなに優秀な知識と技術をもっていても、おしなべて「大工」という職人の範疇に入れられたのである。
モダニズムの時代
そして明治の後半から、日本にもアール・ヌーヴォーの潮流が押し寄せ、大正時代にはゼツェッシオン(分離派と訳される、旧い様式からの分離を主旨とした芸術運動)の動きが顕在化し、昭和の初期にはアール・デコの時代を経て、機能主義モダニズムの時代へと入っていくのである。 しかしその進行とともに、社会全体がファシズムの方向に向かい、「国際様式」としてのモダニズムは、伝統を重んじる国家権力によって弾圧され、いわゆる「帝冠様式(煉瓦造や鉄筋コンクリート造でありながら伝統的な形の傾斜屋根を載せる)」の時代となる。これはドイツでヒトラーがバウハウスなどモダニズム建築を弾圧したことに呼応している。 戦後はその反動もあって、一挙に機能主義モダニズムの時代となり、それが民主主義の建築様式であると考えられた。たとえば前川國男、丹下健三、吉阪隆正などがル・コルビュジエに学んだ(丹下は間接的に、ではあるが)ことから、東大、早大にはその作風が受け継がれ、山口文象、清家清がグロピウスに学んだことから、東工大にはバウハウスの作風が受け継がれる。日本の建築家たちはモダニズムの巨匠から直接薫陶を受け、その思想がいまだに残っているのだ。 端的にいえば、日本は欧米のモダニズムを、少し遅れて追体験したのである。 アジア、アフリカ、ラテンアメリカの国は多く植民地化され、スペインの植民地にはスペイン風、イギリスの植民地にはイギリス風、フランスの植民地にはフランス風と、宗主国の建築様式(日本風にいえば洋風建築)が広がっていった。日本は植民地化を免れていたので、実は洋風建築が入るのが遅かったともいえるのだが、その代わり、維新以後の洋風建築も、モダニズムの建築も、日本人自らの手で設計し建設してきた。 そしてその過程にはさまざまな議論があった。僕らの若いころまで、建築家とは「議論する技術者」でもあったのだ。この建築の様式とイデオロギーが絡んだ葛藤は、中央集権国家と自由民権運動、資本主義の興隆と大正デモクラシー、マルキシズムと昭和ファシズム、米ソ冷戦下の労働運動学生運動などの思想的葛藤と並行する現象でもあった。