大丈夫、「死」には慣れます…難しくない、受け入れればきっと「恐怖」はなくなります
だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 【写真】「うつによる仮性認知症」と「本来の認知症」の見分け方 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
人はどんなことにも慣れる
私は死ぬのがあまり怖くありません。死を不吉だとか、縁起が悪いとかとも思いません。偉そうなことを言うようですが、ほんとうです。 子どものころは、死ぬのが恐かったし、考えるだけでも身がすくみました。家族の死を想像すると、それこそ耐えがたい恐怖に襲われました。テレビで報じられる災害や事故の死者にも、心を痛めたものです。そんな気持ちが変わったのは、やはり医者という職業に就いて、多くの死を見たからだと思います。はじめは緊張し、厳粛な思いで強烈な印象を受けましたが、アルバイト先を含め、何度も患者さんの死を経験すると、徐々に緊張感も薄れ、さほどの非日常感は感じなくなりました。人はどんなことにも慣れるのです。 人の死に慣れるなどとは言語道断。そんなことだから、医者は患者に親身に接することができないんだと、おりを受けるかもしれませんが、いろいろな状況に対応しなければならない専門職として、いつまでも死に慣れないままでいると、プロとしての冷静な判断や対応ができない危険性もあります。 人の死が人生における厳粛かつ重大な出来事であるのはまちがいありませんが、ある意味、自然なことでもあり、受け入れることはさほどむずかしいことではないと私は思います。 逆に言うと、死を恐れたり、いやがったりする人は、死に接する機会が少ないから、拒絶的な気持ちになるのではないでしょうか。 かつて人々が家で死んでいたころには、家族の死は身近にあって、高齢者から順に亡くなるとはかぎらず、若い人でも思いがけず亡くなる状況のなかで、人々は死を学び、それに慣れる機会に恵まれていたと言えます。どの家でも同じようだから、死を当たり前のこととして受け入れるハードルが低かったのでしょう。 それが医療が進歩し、死が病院の中に隠されるようになって、死は得体の知れない恐怖になりました。それに輪をかけたのが、「はじめに」にも書いた生の無条件肯定と死の絶対否定です。もちろん、生は肯定すべきでしょうが、無条件にすべてと言えるでしょうか。現場で極度の苦しみに陥った人を実際に見ている私は、必ずしもそうは思えません。苦しんでいる人に、苦しんでいない他人が生を押しつけるのは、傲慢なことではないでしょうか。「生きろ」と言う励ましは、ときに「死ね」と言うより残酷なこともあります。 想像してみてください。あとはもう死ぬ以外にないとき、耐えがたい苦痛だけが続いている状況で、その苦しみを体験していない人から「頑張れ」「生きろ」と言われたら、どれほどつらいか。 死の絶対否定も、太陽に沈むなと言うのと同じくらい甲斐のないことで、いつかは死を受け入れなければなりません。であれば、あらかじめ準備をしておいたほうが、上手に最期を迎えられるのは明らかです。 にもかかわらず、死のことなど考えたくないと言う人が少なくないのは、根底に死に対する恐怖があるからではないでしょうか。