「歌謡界の女王」美空ひばりの最大の魅力とは。NHK『のど自慢』で当時「子供は童謡を歌う」ところ、10歳のひばりが歌ったのは…
◆さまざまなジャンルの曲が提供される この点は、万城目以外の作曲家の作品に恵まれたことも大きかった。 上原げんとは、昭和26年2月の「ひばりの花売娘」(作詞:藤浦洸)で岡晴夫とは違ったアップテンポな「花売娘」を提供した。 また同29年(1954)5月の「ひばりのマドロスさん」(作詞:石本美由起)では、同32年(1957)3月の「港町十三番地」(同)へと続くマドロス路線を切り拓いた。 ひばりの師の1人である米山正夫は、昭和27年(1952)5月の「リンゴ追分」(作詞:小沢不二夫)で民謡の節回しを上手く取り入れ、同28年(1953)1月の「津軽のふるさと」(作詞作曲:米山正夫)で歌曲のような芸術性を見せた。 昭和30年代にひばりが東映時代劇に出演するようになると、数多くの主題歌や挿入歌が作られた。 そのなかでも昭和33年(1958)6月の『花笠若衆』の主題歌「花笠道中」(同)は、ひばりの股旅ものの道を拓いた。 さらに昭和36年(1961)4月の「車屋さん」(同)では、マンボのリズムと江戸小唄の要素を融合させている。
◆美空ひばりの魅力 リズミカルな歌謡に挑戦したものには、昭和27年8月の「お祭りマンボ」(作詞作曲:原六朗)がある。 ひばりの魅力は、日本調からジャズまで幅広く歌いこなすことができるところだろう。 「演歌歌手」がジャズやポップスを歌唱すると、「こぶし」が楽曲の雰囲気を台無しにしてしまう。 ひばりは「演歌」のように「こぶし」を入れる癖はないが、戦前の音楽学校で学んだ歌手たちとも違った。 クラシックの歌手を目指していたか(クラシック唱法を学んでいたか)否かの差が影響しているように考えられる。 戦前に人気のあった東海林太郎が終戦後にヒットに恵まれなくなり、ひばりがバトンを受け取るようにスターの階段を急上昇していく姿が、そのことをよくあらわしている。 ※本稿は、『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
刑部芳則