「歌謡界の女王」美空ひばりの最大の魅力とは。NHK『のど自慢』で当時「子供は童謡を歌う」ところ、10歳のひばりが歌ったのは…
日本には、長きにわたって愛されてきた<昭和歌謡曲>が数多くあります。日本人は、なぜ昭和歌謡曲に魅了されるのでしょうか?日本近代史を専門とする日本大学商学部教授・刑部芳則さんの著書『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』から一部を抜粋し、当時の時代背景とともに懐かしの名曲を振り返ります。今回のテーマは「美空ひばり」です。 【書影】人々の心をとらえた昭和歌謡曲が生まれた背景と、その特徴を炙り出す。刑部芳則『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』 * * * * * * * ◆天才少女歌手の登場 神奈川県横浜市の魚屋から天才少女歌手が登場した。昭和戦後期を代表する「歌謡界の女王」美空ひばりである。 彼女の父は歌謡曲好きで「青空楽団」を結成し、ひばりは、杉田劇場や横浜国際劇場で歌唱する機会を得る。 しかし、NHK『のど自慢』で歌謡曲を歌ったところ、鐘が1つで終わった。戦前から子供は童謡と相場が決まっていた。 実際、作詞家サトウハチローは、ブギウギを歌う子供を「バケモノのたぐいだ」と批判した。 そうした批判が出た一方、レコード会社の関係者の間では歌唱力がずば抜けた少女がいるとの情報が広がった。 昭和23年(1948)5月1日に横浜国際劇場でひばりは笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌唱し、共演した笠置はもとより、藤山一郎をも驚かせた。ひばり10歳であった。 コロムビア文芸部長の伊藤正憲が目をつけたこともあり、ひばりはコロムビアでレコード録音をすることになる。
◆万城目の試み 最初の録音は、昭和24年(1949)8月に3本目の出演映画『踊る竜宮城』の「河童ブギウギ」(作詞:藤浦洸、作曲:浅井挙曄)であった。 これは笠置のブギの路線で作られたが、ヒットしなかった。ひばりを支持した作曲家万城目正は路線の変更を図る。 昭和24年9月の松竹映画の同名主題歌「悲しき口笛」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)では、大人向けの哀愁のある歌謡曲をひばりに歌わせることにした。10月にひばりはコロムビアの専属歌手となった。 これがヒットすると、昭和25年(1950)7月の松竹映画の同名主題歌「東京キッド」(同)では「右のポッケにゃ、夢がある、左のポッケにゃ、チューインガム」という戦災孤児の匂いがする世界観を、長調の明るいメロディーに仕上げた。 同年12月の「越後獅子の唄」(作詞:西條八十、作曲:万城目正)と同26年(1951)10月の「あの丘越えて」(作詞:菊田一夫、作曲:万城目正)はともに4分の4拍子の短調だが、前者は時代劇のため日本調の雰囲気を出し、後者は現代劇に適した高揚感を演出している。 万城目はどういう感じがひばりに合うか試していたのではなかったか。 ひばりの歌唱力もさることながら、この試みがひばりの歌の世界を広げていった。