「ライフワークは災害支援」能登からウクライナまで、世界の被災者のために奔走する建築家・坂茂氏【世界文化賞】
弱い材料でも大きな空間が作れる
坂さん: 僕は人のまねをしたり、流行に乗ることが性格上非常に嫌いだったので、流行と全く関係なく仕事をしてる数少ない建築家だったオットーさんが好きでした。なぜ時代の影響を受けないかというと、自分独自の材料や構造システムの開発をしていて、自分独自の建築が造れるからなのです。 僕が紙管に出会った時に、これは自分独自の構造システムになるんじゃないかと直感して、開発を始めたのですが、最小限のエネルギーや材料で最大限の空間を造る、弱い材料でも弱いなりに使うことによって大きな空間が造れるという同じような考え方を持っていたのでコラボレーションができたのだと思います。 事務所を立ち上げて10年して、今やライフワークとなっている被災者支援に目が向いた、という。 坂さん: 周りが見えるようになり、建築はあまり社会の役に立ってないことに気が付きました。政治力や財力がある人たちがモニュメンタルな建物を造り、社会に自分の力を見せる、ということに建築家は歴史的にも力を貸してきました。 僕は決してモニュメントを造るのが嫌ではないのですが、特権階級の人の仕事だけをすることにむなしさを感じ、自分の経験や知識で避難所とか仮設住宅で苦労する災害で家を失った人たちの住環境を改善するのも建築家の役割じゃないか、とボランティアの仕事をしようと思ったわけです。
アポなしでUNHCRに直談判
具体的に動くきっかけとなったのはルワンダの内戦だった。 坂さん: 週刊誌で、大量の難民が貧しいテントで震えているキャンプの写真を見て、シェルターを改善すべきだと思って、国連難民高等弁務官事務所に手紙を書きましたが、何の返事もないので、アポなしでジュネーブの本部まで訪ねて行きました。紙管のシェルターの提案をしたら、すごく気に入ってもらって採用してもらったのです。 翌1995年、日本は阪神・淡路大震災に見舞われた。
紙の建築でもパーマネントになる
坂さん: 新聞で神戸の長田区のたかとり教会に多くのベトナムの難民たちが集まってることを知りました。日本の被災者よりももっと大変な生活をしてるのでは、と思って訪ねて神父さんに「紙の建築で仮設の教会を造りましょう」と言ったのですが全く信用してもらえませんでした。諦めきれずに毎週新幹線の始発で通って、ベトナムの人たちと親しくなって家に行ってみたら公園でテント生活をしていたので、学生を集めて、ビールケースの基礎と紙管の壁と屋根で仮設住宅を造りました。それで神父さんの信用を得て、コミュニティセンターとしての紙の教会を造りました。 坂さん: 教会は復興のシンボルになり、コンサートや結婚式にも使われて、10年後に建て直す時に台湾で大地震が起こったので移設して寄付しました。今では台湾でパーマネントな教会兼コミュニティセンターとして使われています。たかが紙で造っても皆さんが愛してくれさえすればパーマネントになり得るのです。 坂さん: 99年はトルコ、2001年はインドから仮説住宅の依頼があって、自分が建築家として生涯やっていくべき仕事だと感じて、NPO法人のボランタリー・アーキテクツ・ネットワークを設立しました。世界中どこでも紙管は手に入るので、地元の学生と一緒に仮設の住宅や教会を作っています。 おととしからウクライナ支援も始めています。僕らは2004年の中越地震から避難所に間仕切りを作る活動を始めていますが、それと同じものをヨーロッパ中に散らばってる難民たちのために、ポーランドを中心として、ウクライナ、スロバキア、ベルリン、パリでヨーロッパの仲間と一緒に作りました。リビウには病院を作ります。 こうして世界各地の現場に飛び、被災者支援を続けてきた坂さんだからこそ日本の避難所のあり方に疑問を呈する。