「ライフワークは災害支援」能登からウクライナまで、世界の被災者のために奔走する建築家・坂茂氏【世界文化賞】
「魔法のよう!」少年時代の夢は大工さん
坂さん: 母がファッションデザインをやっていて、うちの木造の家を大工さんが改装して、縫い子さんの寮みたいになっていました。機械を使わずに手だけで家具を作ったり、本当に魔法のようで、僕は木の匂いも好きだったので、将来は大工になりたいと思ってました。 中学のときに家を設計して模型を作るという夏休みの課題があって、それが学校に飾られて、将来は建築家になろうと思いました。ただ、その頃、ラグビーも真剣にやっていたので、将来は早稲田大学で建築とラグビーを両立させたいと考えていました。
アメリカで磨いたプレゼンテーション能力
高校ラガーマンの聖地・花園で負けたこともあり、ラグビーの道はあきらめ、建築雑誌で見たアメリカの建築家ジョン・ヘイダックが教えるクーパー・ユニオンに魅了され、アメリカに行く道を選んだ。 坂さん: 語学は大変でしたが、模型作ったり図面作ったりするのは得意だったので苦労はしませんでした。アメリカは民族や文化が異なる人たちが多く、理論立てて、人を説得するプレゼンテーション能力が問われ、磨かれました。
大切な木の代わりに・・・紙管(しかん)の始まり
帰国し、1985年に事務所を立ち上げ、展覧会のキュレーターの仕事をする中で、坂氏の代名詞となる紙管(しかん)の開発を始めた。 坂さん: 展覧会の企画でフィンランドの建築家アルヴァ・アアルト展に関わることになり、本来アアルト氏が多様する木を使って展覧会が終わって捨ててしまうのはもったいないので、大切な木に代わる材料として紙管(しかん)を使いました。僕は物を捨てるのが苦手で事務所に置いてあったファックスなどの芯を利用したのです。バブルの時期で、まだ世の中が環境とかエコロジーとか言う前から開発を始め、この展覧会で使ったことが大きなきっかけになりました。 坂茂の名前が大々的に世に知れたのは2000年。ハノーバー国際博覧会日本館を紙管で作ったのだ。このとき協力を仰いだのがドイツ人建築家フライ・オットーさんだった。 坂さん: 学生のときからオットーさんに憧れていて、雲の上の方でしたが、日本館の設計をすべて再生紙の紙の筒で作るという大胆な発想を提案し、彼のおかげで超法規的な建築を実現することが出来ました。それをきっかけにずっと色々な仕事をさせていただいたので、建築家としての僕の師です。