コロナ禍のいま、清志郎さんを思う デビュー50周年を迎えて【前編】
三浦友和、泉谷しげるらとの不思議な縁
― 「僕の好きな先生」は高校時代の美術の小林先生がモデルなんですよね。 呑太夫 武道館の完全復活祭にも招待されてたみたい。亡くなったときに特番ありましたけど小林先生の古希のお祝いで「僕の好きな先生」を一人で多重録音したバージョンが出たり。日野高校のOB展を国立でやってたんですけど、三浦友和さんと清志郎さんは小林先生とつながりが深いので、三浦さんは陶器を出して清志郎さんは絵を出して、2人とも来てましたから。清志郎さんはあのオレンジの自転車で来ていて「これから三浦家に行ってのんびりするんだ~」とか言ってました。 虎男 中学時代、友和さんもバンドのメンバーなんでしたっけ? 呑太夫 「初期のRCサクセション」でボンゴで参加してますよ。 虎男 泉谷さんも最初はRCの客だったんですよね。渋谷の「青い森」とかで観ていて。 呑太夫 「古井戸」とRCがよく出演していて観ていたっていう。渋谷のライブハウス「屋根裏」で4デイズやったときはタスキ掛けたりしてロックバンドの先導者みたいな感じで。初期は自分の社交性のないところを爆発させて歌ったり。破廉ケンチさんのギター、リンコ(小林和生)さんのウッドベース見て、チャボ(仲井戸麗市)さんは「そのままでいいんじゃないか」って参加を迷った話もしてますし。チャボさんがゲストで出だしたのは77年ぐらいでドラムもまだ新井田耕造さんじゃない頃ですからね。72~73年ぐらいには半ばエレキ導入してましたからね。そこから「RHAPSODY」につながっていく。 タクオ 見た目も180度変わりましたよね。髪もツンツンになって、化粧して。 虎男 最初はフォーク的な編成だったのがロックバンドに生まれ変わったんですよね。泉谷さんが本でも書いてたんですけど「客をさんざんいじってたのが、『愛しあってるか~い!』はねえだろ」って(笑) (後編につづく)