「同志社蹴って地元で進学」彼が下した決断の背景。60年の人生に大きな影響を与えた1浪の浪人生活
「(北海道)教育大より同志社のほうが発表が早かったので、合格したときは泣いて喜びました。親もとても喜んでくれましたし、学校全体で盛り上げてくれましたね。ですが、肝心の(北海道)教育大の受験では、得意だった数学で内接円の計算を失敗してしまったんです。 それがあってか、第2志望だった養護学校教員養成課程特殊教育学専攻(当時)には合格しましたが、第1志望だった小学校教員養成課程(当時)には受かりませんでした」
幸い、合格した課程でも小学校教諭1級を取得することはできました。一方で、同志社大学への進学も悩んだ山西さん。父親と相談し、自分のやりたいことを考慮した結果、やはり北海道教育大学札幌分校に進むことを選びました。 「親父は酪農家の次男坊で、石川県から北海道へ屯田兵でやってきた家庭の苦労人でした。私は浪人時代に朝6時ごろに起きて、予備校に行って帰ってきて、23時まで勉強していたのですが、父親と同じくらい勉強(仕事)しているぞと思えたと同時に、こういうふうに稼いで育ててくれたんだと父親を尊敬し、感謝できるようになったのです。
父は『(同志社に)行きたいなら行かしてやる、家を売ってでもお金を出してやる』『4年間はお前の人生だが、卒業してからもお前の人生だぞ』と言ってくれました。ただ、私立で下宿代もかかるうえ、商学部の勉強には関心はないのに、ネームバリューだけで行くのは違うと思い、自宅から通える国立大の教育大に進んで、勉強をしようと思いました」 こうして波乱万丈の受験生活を終えて、1浪で北海道教育大学教育学部札幌分校の養護学校教員養成課程に進んだ山西さん。
教育大学を卒業後、アメリカの大学と大学院で延べ3年間留学をしました。 就職活動では三井不動産と講談社に内定を得るも辞退し、北海道内の公立高校・英語教諭になります。その後私立中高一貫校に異動し、生徒の東大理3や北大医学部合格を後押ししました。 さらに、国立高専(准教授)で在職中に、47歳で大阪大学大学院博士後期課程に入学、飛行機通学をしながら全科目「優」で、満期単位取得終了を迎えます。 そこから、国公立大学准教授・教授を経て、現在は秀明大学の教授として言語社会学や英語教育学、認知心理学を教えています。