「同志社蹴って地元で進学」彼が下した決断の背景。60年の人生に大きな影響を与えた1浪の浪人生活
国立大学も私立大学も、どこを受験しても合格が難しい状態であったため、志望校より少し入りやすい北海道教育大学教育学部釧路分校(現:釧路校)を受けたものの、結局1次試験の点数が尾を引いて落ちてしまいました。 「(遠方で)合格発表を見にいくことができないので、電報を頼んだのですが、『クシロシツゲンニ、ナミタカシ。ゴメンネ。』と書かれて届きました。不合格の通知だったのです」 こうして山西さんは、原因不明のスランプに陥ったまま、現役の受験を終えました。
浪人を決断した山西さんは、札幌予備学院(現・河合塾札幌校)に通って浪人生活を決意します。その理由を聞くと、「大学には絶対行きたかったから」と答えてくれました。 「小学校教員の資格をとりたかったので、大学には行きたいと思っていました。宅浪という選択もあったのですが、自分だけで勉強をするのは(ノウハウがなくて)きつく、予備校に頼ったのです。 札幌予備学院の授業料は当時33万円でした。当時は1年間の国立大学の入学金と、授業料を合わせると36万円くらいの時代だったので、大金です。親にお願いして、銀行を2つ回って自分でお金を下ろし、予備校に通わせてもらいました」
「1万円札の聖徳太子33人を2時間じっくりかけて見て、このお金を無駄にできないと思った」と語る山西さん。親が払ってくれた「大金」の重みを自覚したこともあり、この1年は勉強に打ち込みます。 「辞書で『浪人』ということばを引くと、『何もしないでフラフラしてる者』と載っていました。だからこの1年は、勉強しかしないつもりで、趣味を聞かれたら『勉強です!』と答えられるくらい勉強に打ち込もうと思いました。風呂上がりにドライヤーをしている暇もないと思ったので、3月にはスポーツ刈りにして、予備校にテキストを貰いに行ってからすぐ勉強を開始しました」
4月の北海道大学の入学式の日には、稚内の小学校の同級生で同大学に合格した友人と偶然再会したこともあり、その同級生をライバル視して勉強に打ち込んだ山西さん。 北大では小学校の教員免許は取れないというジレンマはあったものの、そうした「仮想ライバル」もいたために憧れていた北海道大学を第1志望に設定し、札幌予備学院の北大文系科コースに入って1日平均12時間、夏休みには最大14時間の勉強に励みます。 成績は次第に向上し、特に日本史の偏差値は75まで到達。腕試しで受けた10月の全統私大模試では早稲田大学教育学部でC判定、慶応義塾大学の法学部ではなんとA判定を取ることができました。