ゆとり先生の教育提言(4) 被差別者が亡くなれば差別はなくなるのか?
「療養所」今も全国に13 か所
故郷を追われたハンセン病患者は、全国にある療養所に収容されました。療養所はハンセン病患者の治療を目的とする療養施設ですが、実際は患者を隔離するための施設としての性格が色濃く、施設職員の指示に従わない患者を拘束する監獄のような場所もありました。 逃走防止のため患者から現金を没収する、優生保護の観点から、入所者同士で結婚する場合は避妊手術を受けさせられるなど、露骨な人権侵害行為も数多く行われました。隔離政策が廃止された後も、帰る故郷の無いハンセン病回復者も多く、今も全国に13か所ある国立療養所で生活しており、その平均年齢は85歳を超えています。
岡山県瀬戸内市に長島という島があります。岡山市中心部より約30キロメートル離れた瀬戸内海に浮かぶ面積6.6平方キロメートルの小さな島です。この島には長島愛生園と邑久光明園(おくこうみょうえん)という二つの国立ハンセン病療養所が存在します。私は2003年から2017年まで年に1~3回、両療養所を1回あたり2名から10名程度の高校生と共に継続的に訪問し、島で暮らすハンセン病回復者の方へ、ご自身が受けられた差別の体験など聞き取り調査 を行いました。
2重の差別、立花さんのケース
その中でも特に印象に残っているのが、2008年から2017年まで続いた、立花誠一郎さん(1921~2017)との交流です。立花さんは人生のほとんどを「元ハンセン患者」「元戦争捕虜」という二重の苦しみに囚われながら過ごしてきました。高校生と共に紡いだ立花さんのライフヒストリーの記録を紹介します。
立花誠一郎さんは1921年、愛知県に生まれます。尋常高等小学校卒業後、鉄工所で鍛冶職人の見習いとして就職、20歳になると徴兵検査を受け、通信兵として満州を経てニューギニアに派遣されます。1944年4月、防空壕に入っていたところを敵兵に見つかり、止む無く捕虜となりました。 オーストラリア南東部・カウラにある捕虜収容所に移送された後、軍医の診察を受け、ハンセン病と診断されます。立花さん自身も、この時までハンセン病にかかっていたとは知りませんでした。直後に衛生兵と通訳が来て、「あなたは、明日から、この病棟には来ないでください」と告げられ、隔離されることになりました。