鴻巣友季子の文学潮流(第21回) 英語圏で続く日本語文学ブーム、若い世代が支持
花形翻訳者の登場
こうした英訳書の評価の背景には、翻訳者たちのvisibility(翻訳学の用語で訳者の存在が見えること。訳者の知名度や影響力のことを言う)の高まりも感じる。翻訳家は日本では比較的大切にされているけれど、欧米とくに英米圏では扱いが低かった。いまも表紙に訳者名が出ない翻訳書はたくさんある。しかしこの10年ほどでその状況が変わりつつある。ノーベル文学賞作家オルガ・トカルチュクの諸作も翻訳しているジェニファー・クロフトなどは、「表紙に訳者名を載せない本の仕事はしません」と宣言し、翻訳者の地位向上のために運動している。 『BUTTER』の英訳者ポリー・バートンは日本のJLPP(現代日本文学の翻訳・普及事業)翻訳コンクールの第1回最優秀賞受賞者であり、その後めざましい実績をあげている。柴崎友香、津村記久子、松田青子らの小説を英訳し、松田の『おばちゃんたちがいるところ』の英訳『Where The Wild Ladies Are』は世界幻想文学大賞短篇集部門を受賞した。バートンは自らが書いたエッセイ集でも賞を受けており、その慧眼が編集者にいたく信頼されているようだ。 この翻訳者の影響力は大きいだろう。今年、金井美恵子がノーベル文学賞の賭け予想で上位に登場して関係者筋を騒がせたが、金井の『軽いめまい』を『Mild Vertigo』として英訳したのもバートンである。さらにこの訳書の出版社がノーベル賞作家の輩出する版元だったため、これに目をつけたマニアたちが国際ブッカー賞のリスト入りを予想し(実現はしなかった)、そうした一連のことがノーベル文学賞のオッズにも響いたと思われる。 また、スティーヴン・スナイダーはたいへんな大御所で、1990年代から日本語文学を翻訳しており、そこには村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(英訳Coin Locker Babies)、柳美里の『ゴールドラッシュ』(Gold Rush)、桐野夏生の『アウト』(Out)などが含まれる。 私の記憶では、『Gold Rush』は2000年代の初め、アメリカの書店チェーン「バーンズ&ノーブル」の選ぶ「新人発掘プログラム」に選ばれたはずだ。日本語作家の選出に目を瞠(みは)ったのを覚えている。あれはスナイダーの訳業だったのかと、長年にわたる功績に感謝の念が湧いてくる。 ちなみに、柳美里は今年も、『8月の果て』のモーガン・ジャイルズによる英訳『The End of August』が全米翻訳賞散文部門のショートリスト入りした。『JR上野駅公園口』(TOKYO UENO STATION)で2020年の全米図書賞翻訳部門をさらった黄金のタッグである。 来年はどんな日本語文学が海外で紹介され、どんな外国文学が日本語に訳されるだろうか。世界文学の巨大な循環のために尽力している世界中の翻訳者の皆さん、お疲れさま、どうもありがとうございます! (文=鴻巣友季子)
朝日新聞社(好書好日)