【特集】マグヌッセン以前に出場停止を食らった7人のF1ドライバー……その“罪状”は何だったのか?
1994年:ミカ・ハッキネン
シューマッハーの出場停止の陰に隠れるような形で、実は彼の生涯のライバルであるミカ・ハッキネンも1994年シーズンに1戦の出場停止を受けている。 当時マクラーレンのハッキネンは、イギリスGPの最終ラップにジョーダンのルーベンス・バリチェロと接触。この時点では執行猶予付きの出場停止処分が下ったが、続くドイツGPでもスタート直後の攻防でウイリアムズのデビッド・クルサードと接触してしまい、複数のマシンを巻き込む形でバリアにクラッシュした。 これにより早速処分が下る形となり、次のハンガリーGPでの欠場を余儀なくされた。この時点で9戦中7リタイアに終わっていたハッキネンにとっては、痛い制裁であった。
1994年:エディ・アーバイン
1994年シーズンは3人ものドライバーが出場停止となった稀有なシーズンであり、エディ・アーバインに至っては3戦出場停止という重い処分を受けた。 1993年の日本GPでジョーダンからデビューし、そのアグレッシブな走りでいきなり入賞も記録していたアーバインは翌年のシートも掴んだが、開幕戦ブラジルGPで多重クラッシュの原因となった。 アーバインはリジェのエリック・ベルナールを追い抜くべく、ベネトンのヨス・フェルスタッペンに強引に幅寄せする形で進路を変えた。その結果フェルスタッペンが芝生にタイヤを落としてスピンすると、アーバイン、ベルナール、そしてマクラーレンのマーティン・ブランドルを巻き込む大クラッシュに発展した。 これによりアーバインは1戦出場停止となったのだが、ジョーダンは控訴。その結果FIAはそれを棄却しただけでなく、出場停止は3戦に増えてしまった。なお、出場停止中の第2戦パシフィックGPでは鈴木亜久里が代役として出走した。
1989年:ナイジェル・マンセル
当時フェラーリのナイジェル・マンセルは悪名高きエストリルでの失格劇によって出場停止を食らってしまった。 1989年ポルトガルGP、チームメイトのゲルハルト・ベルガーを抜いてトップを独走していたマンセルは、40周を終えたところで猛然とピットロードに駆け込むと、オーバースピードでチームのピットボックスに進入したため、マシン1台分ほど行き過ぎてしまったのだ。マンセルはリバースギヤを使って逆走してボックスに戻りタイヤ交換をしたが、これはれっきとしたレギュレーション違反。失格の裁定が下されてしまった。 しかしマンセルはマクラーレンのアイルトン・セナを追いかけることに必死で、黒旗の提示を再三無視して走行。結局2台は接触し、マンセルはあろうことかセナを巻き添えにしてグラベルの餌食となってしまった。この行為でマンセルは5万ドルの罰金と1レース出場停止を命じられた。