日本最大の盆踊りの一つ「阿波おどり」を踊りすぎて処罰された武士がいた!?『禁断の江戸史』より
徳島藩の知藩事として藩政改革をすすめた蜂須賀茂韶
ところが、徳島藩の家老の稲田邦植(くにたね)(洲本城代・約一万四千石)は、尊攘派として急進的な行動をとっていた。 そのため、徳島藩は幕末に統一的な行動がとれなかった。そのうえ藩主・斉裕は、鳥羽・伏見の戦いの直後に48歳の若さで病死してしまう。 新藩主には斉裕の次男の茂韶(もちあき)がついたが、すでに数年前から彼は京都で政局に積極的にかかわり、朝廷に生まれた新政府内では公儀政体派の松平春嶽(しゅんがく)らと協力して、新政府軍の徳川討伐を止めようと動いた。 けれど、その建言は受け入れられず、東征軍は江戸へ向かって出立してしまう。 このため茂韶も観念し、「我が藩も東征の列に加えてほしい」と願い出る。 慶応4年(1868)3月、茂韶は新政府の議定(ぎじょう)に任じられ、刑法事務局輔を兼ね、翌明治2年に版籍奉還が実施されると、徳島藩の知藩事となり、国元へ戻って藩政改革をすすめた。
本藩の家臣が士族になり、稲田氏の家臣たちは格下の地位に
「そんな徳島藩に翌明治3年、激震が走ります。本藩徳島の家臣が士族となったのに、家老の稲田氏の家臣たちは陪臣(ばいしん)ということもあり、卒族(士族より格下の地位)とされてしまいます。 これに不満に思った稲田氏は『家中の者を士族に取り立ててほしい』と本藩に掛けあいますが聞き入れられない。するとなんと、徳島藩からの独立を新政府に働きかけたのです。 この動きに徳島藩の家臣たち(一部)が激昂、同年5月、稲田氏の屋敷やその拠点である洲本地域を襲撃し、多数の死傷者を出しました」
「稲田騒動」の勃発が阿波おどりの全面禁止につながった
「これが『稲田騒動』と呼ばれています。新政府はこれを知り、一時は茂韶の知藩事罷免(ひめん)も検討しましたが、結局、首謀者の徳島藩士・小倉富三郎ら十名を死罪とし、そのほか百人以上を処罰することで決着をつけました。 そして稲田氏に対しては、北海道の静内(しずない)と色丹(しこたん)島(現・北方領土)に新地を与え、彼らを士族に遇して移住させ、同地を開拓させました。 なお、このときの労苦は、吉永小百合主演の映画『北の零年』で知ることができます。こうした大騒動の勃発により、明治3年の阿波おどりは、開催が全面禁止となってしまったのです」