日本最大の盆踊りの一つ「阿波おどり」を踊りすぎて処罰された武士がいた!?『禁断の江戸史』より
阿波おどりの「もう一つの起源」
ただ、この説は明治41年(1908)の『阿波名勝案内』(石毛賢之助編)に初めて登場したもので、史実だとするのは難しいという。 江戸時代の比較的早い段階で成立した『三好記』には、この地域の領主だった十河存保(そごうまさやす)(三好長慶(ながよし)の甥)が、天正6年(1578)に勝瑞(しょうずい)城下において、庶民の風流(ふりゅう)踊りを見物したという記録があり、その風流踊りこそが、阿波おどりの起源であるという説もあるそうだ。 風流踊りというのは、七月の盂蘭盆(うらぼん)に際して町や村が一つの構成単位となり、仮装して行列で練り歩く祭りのことである。
徳島藩は武士の阿波おどり参加を禁止に!
いずれにせよ、起源ははっきりしないものの、阿波おどりの起源となる踊りは、四代将軍・徳川家綱時代の明暦2年(1656)には確実に存在した。 というのは、「盆の三日間だけ踊りを許可するが、寺院の境内に入り込んで踊ってはならない。また、藩士は野外に出ず、屋敷の中で踊るように」という徳島藩の通達が出ているからだ。 「町人との揉(も)め事を嫌ったのか、徳島藩は家中の武士たちが市中に出て踊ることを厳しく禁じています。 興味深いのは、それでも藩士たちは踊りのイベントに加わりたかったようで、屋敷の敷地に町人たちを招き入れて踊りを見物したり、自分の代わりに町で踊る者を雇ったりしていました。中にはこらえきれず、覆面や頭巾などで顔を隠して市中へ忍び込んで踊る者もあったといいます」
阿波おどりを踊ったことが原因で、武士が改易される
天保12年(1841)には、とうとう阿波おどりのために改易される武士が出る。 「驚くべきは、処罰されたのが十代藩主・蜂須賀重喜(しげよし)の実子だったこと。当時、中老をしていた蜂須賀一角(いちがく)(石高千石)でした。 一角は、『市中の踊り舞台に出向いてはいけない』という禁令を無視し、祭の本番中にがまんできずに屋敷から抜け出し、取り締まりの番士に見つかってしまいます。 一角はすぐに自宅に連れ戻され、謹慎処分として座敷牢に入れられました。なのに翌年7月、またも牢から抜け出して外で発見されたのでした。 ただし、一角がいたのは、領内ではなく、讃岐国白鳥(しろとり)でした。有名な白鳥神社があり、時期が7月であることから夏祭りに参加していたのではないでしょうか。 徳島と白鳥の距離は35キロほどですが、江戸人の健脚なら一日で到着し、次の日には戻ってこられます。ですが、不運なことに一角は徳島藩の商人に見つかって飛脚で通報され、再び屋敷の牢にぶち込まれてしまったのです」