日本最大の盆踊りの一つ「阿波おどり」を踊りすぎて処罰された武士がいた!?『禁断の江戸史』より
徳島藩は領民にも阿波おどりを制限した
9月に参勤交代から戻ってきた十二代藩主・斉昌(なりまさ)はこれを知って激怒、なんと一角を追放処分とし、家は改易とした。 しかし11月になって中老・蜂須賀家には養子を迎えて家を再興、一角は引き戻され再び座敷牢に入ったのである。その後、一角がどうなったかはわからない。いずれにせよ、ずいぶんと厳しい処置だった。 「徳島藩は、家中に対して厳しかっただけではなく、じつは領民にもかなりうるさく阿波おどりを制限してきました。 江戸時代半ばまでは、阿波おどりはいまと違って、『組踊り』という形態が主になっていました。 町ごとに総勢百人を超える踊り手と囃子(はやし)方を組として組織し、三味線を先頭に巨大なあんどんをかかげて壮麗な踊りを繰り広げていくのです。他町に対してどれだけ派手で奇抜な踊りを見せるかで、互いの町組は激しく競いあったのです」
阿波おどりが、全面禁止になりそうに……
徳島藩としては、徒党を組んで町人たちが競演するのを嫌い、江戸中期以降、何度も組踊りを禁止。 このため、江戸後期になると「ぞめき踊り」が主流になってくる。「ぞめき」に漢字をあてると「騒」となる。 字面(じづら)のとおり、三味線を筆頭に笛や太鼓を騒がしく奏(かな)でながら、個々に踊る形態に切り替えたのである。そして皮肉なことに、これが阿波おどりを飛躍的に発展させる結果になった。 型の決まった集団戦ではなく、騒がしくも単純なリズムにあわせ、個人が手をあげて横に激しく振り、足で地を蹴って進めばよい。 つまり、個人が踊りの列に容易に飛び入り参加できるようになったのである。ただ、組踊りのほうも消滅したわけではなく、明治期から「組」は「連(れん)」と呼ばれ、阿波おどりを主導する存在となる。
実際に禁止になったのはたった一度だけ
「阿波おどりを制限した徳島藩ですが、全面的に禁止することはありませんでした。 しかし、廃藩の一年前、たったの一度だけ踊りを取りやめさせたことがあります。明治3年(1870)の稲田騒動のときでした。 十二代藩主・斉昌に後継者がいなかったので、将軍・家斉の第二十二男を養子とし、十三代藩主としました。それが蜂須賀斉裕(なりひろ)でした。 このため、外様ながら幕末の徳島藩は親幕的であり、斉裕は幕府の陸軍総裁になっています。さらに多数の藩士を京都へ派遣して幕府の一橋慶喜に協力して公武合体政策をすすめました」