伊藤比呂美「魔法の言葉──死んだ夫を送る歌」
今年の四月の終わり、ジェリーが入院中の病院から自宅でのホスピスケアに移行することになった。 それを知った夜、あたしは眠りながら考えていた。夢というんじゃないけど、夢だったのかな。ジェリーはもう死ぬんだと考えている夢を見ていたような気もする。 というのもうちの夫が、やっぱり入退院をくり返し、最終的に自宅でのホスピスケアに移行した。うちに帰ってきてほっとして笑顔さえ見せて、好きなインド料理もテイクアウトして食べた。それから一週間も生きなかったからだ。あたしは眠りながら考えていた。朝になったらダイアンに電話しようと。 朝、電話したら、息子が出て(遠くの州から帰ってきていた)、「おお、ひろみ、ひさしぶり、今は日本からか」と言いながら、なんだか歯切れが悪いのである。「今はちょっと忙しい、明日にでもかけ直して」と息子が言ったそのとき、後ろでダイアンの声が聞こえた。ひろみなら伝えていいと言ってたんだと思う。それで息子が話し始めた。「じつは父がついさっき亡くなって」と。 あたしははからずも、ジェリーの死を知った最初の人になった。眠りの中で、死んでいくジェリーと交信してたのかもしれない。 電話を切ったとたん、クレイマーがしんみりした表情で近寄ってきて、頭をあたしの股の間に突っ込んで、慰めるように、おかあさんだいじょうぶ、ぼくここにいるよという仕草をした。犬はみんなこれをする。でもクレイマーがしたのは初めてだった。
あたしは数日後に電話をかけ直した。今度はダイアンが出た。声を聞くなり「ダイアン、愛してる」と言ったら、「わたしも愛してる」と返ってきた。 「I love you」は恋人同士のささやきだけではない。親子の間でも言い合う。親密な間でほんとによく言い合う。 「ジェリーが、死んで、すぐに、あなたが電話してきた。あれは、マジカルだった」とダイアンが言った。マジカル(魔法じみた)という言葉が沁みた。 「彼はいつ最後の詩を書いたの」 同じ詩人として聞いておきたかった。 「彼は、毎日書斎へ行って、座ったけど、書けなかった。コンピュータが、わからなくなっていた。最後の数ヵ月、彼は、ジェリーじゃないみたいだった」 ああ、そのとおり、あたしが夫の最後の数ヵ月に感じたことそのままですよ。 「彼は、弱かった、弱かった、弱かった」とダイアンは三回くり返した。「心配で、心配で、心配で、つくりかけの詩集のことが」とまた三回くり返した。 電話の奥から、脳梗塞の後の、ひとつひとつしぼり出すように押し出されてくるたどたどしい言葉が、夫の死にざまと生きざまを、あたしに伝えた。 それはまるで、先住民のまじないうたのように聞こえた。老いた妻がうつむいて唱える「死んだ夫を送る歌」みたいだった。
伊藤比呂美