なぜ悲願の金メダル(400m・車いすT52)を獲得した佐藤友祈は感動の大逆転に成功し泣いたのか…「このパターンが激アツ」
後輪のハンドリムをスタートから全力でこぐのではなく、徐々に力を入れていくスタイルに変更した。スピードに乗りやすくするために、リオデジャネイロ大会時に80kg近くあった体重を70kg前半にまで減らした。減量の指南役だった栄養士の女性は、いまでは夫人として佐藤を支えている。 肉体改造を介してのレーススタイル変更は障害者スポーツ、そのなかでも車いすを駆使した陸上競技を始めたきっかけと密接に関係している。 静岡県藤枝市で生まれ育った佐藤は、レスリングの元国体選手だった父親の影響もあって、妹とともにレスリングにまず打ち込んだ。中学では陸上部に入部したが、もともとは運動を不得手にしていて、興味や関心は文化系に注がれがちだった。 高校卒業後は静岡県内の水産加工会社に就職したが、ジャニーズにも憧れていた佐藤は退職して上京。アルバイトで生計を立てながら、俳優を夢見ていた2010年、21歳のときに脊髄炎で倒れて下半身の感覚が失われ、左腕にも麻痺が残った。 「夢を持って上京していましたが、すべて白紙になり、気持ちは文字通りどん底でした。当時は病名すらわからず、治療のめどすら立たない状況にとても落胆し、家から一歩も出られない日々が1年半続きました」 車いすでの生活を余儀なくされ、一変した日常をこう振り返ったことがある佐藤は、自身の公式ツイッター(@ sato_paralympic)に投稿した動画で「ひと筋の光がさし、僕は変わりました」と語っている。テレビ越しに見た、2012年のロンドンパラリンピックの車いす陸上に覚えた感動が、胸を張って前へ進んでいく勇気へと変わった。 「国を代表してパラリンピックの舞台に立つ選手たちは自信に満ちあふれ、最後まで全力を出し切っている姿がとてもカッコよくて、気がついたら僕は涙をボロボロと流していました。そして、気づいたのです。人間の可能性は無限だ、ということに」 知人を介して初めてレーサーに試乗させてもらった。そのスピードとダイナミズムに心を奪われた。 目標をパラリンピアンに定めた佐藤は初めて出場した競技会で、初対面のアスリートたちに「次のパラリンピックで金メダルを取る佐藤です」と自己紹介して回った。 笑われてもかまわなかった。抱かなければ夢はかなえられない。自分自身にあえて重圧をかけて退路を断った。さらにマーティンに一歩及ばなかったリオデジャネイロ大会を振り返ったとき、脊髄炎の後遺症で握力が3kgほどしかない左腕に行き着いた。