AKBからYOASOBIの『アイドル』へ...なぜ時代は、萌えから「推し」に変わったのか
報われない「萌え」、報われる「推し」
精神科医の熊代亨は著書『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』(大和書房)で、「萌え」は鏡映自己対象としての役割、「推し」は理想化自己対象としての役割を求めるものだと説明する。 鏡映自己対象とは承認欲求を満たす、つまり自己愛を満たせるほど愛してくれたり褒めてくれたりする対象のこと。理想化自己対象とは所属欲求を満たす、つまり自分がこうなりたいと思う、尊敬したり憧れたりする対象のこと。そう熊代は説明する。 だとすれば「萌え」と「推し」の間にあるものは、自分との距離だ。「萌え」は自分と同程度か自分より少し低いところにいる対象に発動する。しかし「推し」は理想化するくらい、自分よりも高いところにいる対象に発動する。要は、「萌え」は応援するものではないが、「推し」は応援するものなのだ。 「推し」には、応援したり推薦したりする、つまり、上に押し上げたいという欲求が存在する。だが「萌え」は、自分と近い場所にいてくれることが重要である。 『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに萌えるオタクが「綾波レイにもっと人気になってほしい!」なんて思わない。だが『名探偵コナン』の安室透を推すオタクは、安室透に100億の男になってほしいのである(*2)。ここに熊代の指す「鏡映自己対象」と「理想化自己対象」の違いがある。 つまり「萌え」は好きな対象への瞬間的な欲求だが、「推し」には自分のアイデンティティを代替させたいという欲求が入り込む。「推し」は、自分の理想化した行動をとってほしい、その理想化の一部に自分もなりたい、という理想アイデンティティを託す対象なのだ。 だとすれば、「推し」に対する応援や推薦は、「理想化された姿になる」ことがゴールになる。「推し」とは、自分と対象の「理想」が重なっていると信じられるときに生まれる存在なのである。 萌え=好き 推し=好き(萌え)+理想に向かう行動 「このカップリング、推せる」「このキャラ、一生推す」と言うとき、「私が追い求めていた理想に近く、その理想を実現するために応援したい」という意図が入り込む。 たとえば清少納言が、藤原定子没落時、没落以前の思い出を『枕草子』にあえて綴ったことは有名なエピソードだ。清少納言にとって定子とは「推し」であったと言うとき、清少納言にとって取り戻すべき「理想化した定子」が存在しており、それを取り戻すために『枕草子』を書き連ねた、という解釈が可能であろう。 あるいはネットで流行する「推しは推せるときに推せ」という言葉がある。これはつまり、「卒業やスキャンダルなど、推される側もどうなるかわからないのだから、好きでいられるタイミング=自分と推される側の理想が重なるタイミングにおいては、その理想を応援しよう」という意味である。 「萌え」はありのままの対象への感情である。一方で、「推し」はありのままの対象への感情とともに、理想化された対象への行動でもある。だとすれば、「推し」が「考察の時代」に流行する理由もわかる。「考察」では正解を解くことで「報われる」。また「推し」も、理想へ到達すれば「報われる」。 「推し」の代表例としてしばしば挙げられるのがアイドルだ。アイドルはたとえば東京ドームに行くことや「ミュージックステーション」に出演することといった理想のゴールを描きやすい。そしてその理想に至り、ファンとアイドルがともに報われるために行動する、という道筋を示すことができる。 元AKB48の高橋みなみが現役時に「努力は必ず報われる」と語ったことがグループの象徴的な出来事とされているが(*3)、これはまさに理想化自己像を背負うことについて「推し」側から語った言葉だった。 「報われる」とはつまり「理想の自分になることができる」ということだからだ。平成を象徴するAKB48が令和的な「推し」という語彙のきっかけになったように、高橋の発言もまた「理想化自己像」の萌芽と言えるかもしれない。 「推し」という対象には、理想という達成すべきゴールがあり、その理想に向かう道筋が報われることを望む。考察とともに、推しもまた、「こうすれば報われる」理想という名の達成目標がどこにあるか設定されうる。 「批評」はゴールがなく、「考察」にゴールがあったように。「萌え」には「こうすれば報われる」ゴールなどない。どのような行動をとれば「萌え」を表現できるのか、それは人それぞれである。 しかし「推し」は「こうすれば報われる」ゴールが、一人ひとり設定されている。それは理想という名のゴールのことだ。推すことを表現する行動――「推し活」は、対象の理想に向けて行動することを指す。