AKBからYOASOBIの『アイドル』へ...なぜ時代は、萌えから「推し」に変わったのか
推し=好き+行動する対象
「考察ドラマ」の流行が、コロナ禍以降、つまり2020年以降のヒットであることに鑑みると、「推し」と「考察」はほとんど同時期にヒットしている語彙であることがわかる。 さて、そんな「推し」の時代から時計の針を戻そう。平成――「推し」が浸透する以前は、誰かを好きだと思うことは、どんなふうに呼ばれていたのだろう。 そこには「萌え」があった。 2005年に「萌え~」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされたことをあなたは覚えているだろうか。あるいは、2005年に『電車男』(中野独人、新潮社)がドラマ化・映画化して大ヒットし、「萌え」という語彙を広めたことを覚えているだろうか。 そう、「萌え」とは平成の大ヒットコンテンツだったのだ。 推しの令和、萌えの平成。あなたがシンパシーを覚えるのは、いったいどちらの時代だろう?
なぜ「萌え変」とは言わないのか?
批評家の東浩紀は、「萌え」とは、1990年代にヒットしたキャラクタービジネスにおいてきわめて重要な概念であったことを指摘している。 1990年代のキャラクタービジネスとは何か。それは、1990年代以降に市場で存在感を増した、マンガやアニメ、ゲーム、トレーディングカード、フィギュア、イラストといったさまざまな企画の総称である。ポイントは、それらの最も重要な骨組みになるのが、物語ではなくキャラクターであることだ。 たとえば「萌え」のイメージはないかもしれないが、この時代から始まるヒット商品としてわかりやすいのが、任天堂から1996年に発売され、それ以降大ヒットし続けている「ポケットモンスター」シリーズ。いまやゲームにとどまらず、ポケモンのカードやぬいぐるみ、フィギュアやイラスト、映画もヒットした。 しかし、ポケモンという企画の核には何があるのかと考えたら――よくわかるとおり、決してサトシとピカチュウの出会いではない。ピカチュウをはじめとした、ポケモンというキャラクターそのものが企画の最重要項目であることは、容易に想像がつくだろう。 そしてとくにキャラクターに対する「萌え」の感情が、たとえばマンガやアニメを楽しむだけでなく、そこに登場する好きなキャラクターのフィギュアを買ったり、あるいはイラストを二次創作して描いたりすることにつながる。 物語よりも、キャラクターが重視される時代。キャラクターに「萌え」たオタクたちは、ジャンルを問わずキャラクターの消費に手を伸ばすようになった。 なぜ、オタクたちは猫耳のキャラクターに萌えるのか? それは結局、インターネットで日々膨大な量の「萌え」データベースにアクセスした結果、猫耳と言えば「萌え」の対象だ、と思うようになったからではないか。東はそう語る。 つまり、たとえば「萌え袖」という言葉が指すような服の着こなしは、「こういう袖の出し方ってかわいい」という共有されたデータが多くの人びとの頭の中にあるからだ、ということだ。このような「萌え」の根底にある消費行動を、東は「データベース消費」と呼んだ。 さらに東は「萌え」について、人間的な「欲望」ではなく、あくまで動物的な「欲求」であると、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(国文社)を引用しながら語る。 「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏―満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。 しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)オタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。 (東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書) つまり、「萌え」とは「なんとなく自分は猫耳が好きだ」とか「なんとなく眼鏡のクールなキャラが好きだ」といったデータベースから反応する反射的な欲求だということだ。 ――この図式に当てはめてみると、はたして「推し」は人間的社会的な「欲望」にカテゴライズされるのだろうか? 私は、そんなことはない、と考えている。 つまり「推し」にもまた、東の言うようなデータベース消費――「なんとなく自分は猫耳が好きだ」とか「なんとなく眼鏡のクールなキャラが好きだ」といったデータベースから生まれた趣味嗜好から誕生する「萌え」の感情が根底にある。 実際、「推しメン」(*1)という言葉を流行させたAKB48グループは、秋葉原、つまり「萌え」文化の中心的場所からスタートしたアイドルグループである。VTuberの興隆などに鑑みても、1990年代以降のキャラクター「萌え」文化と、2020年以降の「推し」文化双方の背景には、同様に東の言うデータベース消費文化が存在する。 データベース消費による説明は非常に明快で、わかりやすい。が、これだけ理解すると、「萌え」も「推し」も変わらないのでは? と思えてしまう。単純に好きなキャラクターに関するグッズを購買したりする行動は「萌え」も「推し」も同じで、それを「好きだから買う」か「応援のために買う」か、表面的な目的が異なるだけなのでは? と感じてしまうかもしれない。 しかしこの2つには、明確に異なる点がある。「萌え」の対象は「変わる」ことが前提にあることだ。 オタクたちの萌えの感覚は、つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されており、だからこそ、彼らは萌えの対象をつぎつぎと変えることができる。 (東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』) つまり「萌え」とはきわめて瞬間的な欲求のことを指した言葉なのである。たとえば「萌え変」とは言わない。「萌え」は一瞬のなかであふれ出す感情であり、対象が変わるのは当たり前だからだ。 一方で「推し変」という言葉は存在する。「推し」は一瞬の感情ではなく、継続的な行為であるとされており、対象を変えることは一大事だからだ。「推し」は変えることが当たり前ではないからこそ、「推し変」という語彙が生まれたのである。 つまり、図式化するとこのような差異が見える。 萌え=好き 推し=好き+行動する対象 では、「推す」行動の正体とは何なのだろう?