藤ノ木古墳と舟塚古墳の大発見! 同じ石棺に埋葬された成人男性2人は一体何者なのか!?
大きな駐車場の隅にある円形の植え込みが、実は横穴式石室の円墳だったことが実証されました。 法隆寺のそばにある古墳をピックアップしてみましょう! ■法隆寺のすぐそばで発見された舟塚古墳 前回ご紹介した奈良県生駒郡斑鳩町の世界遺産法隆寺に私は何十年とお邪魔してきましたが、びっくりするようなニュースが2022年に飛び込んできました。 実は以前から古墳だといわれていたらしく、丸木船のような割竹型の木棺が出土したという話があって、舟塚という名前が付けられていたようです。子供のころから大ファンだった法隆寺にばかり目が向いていたので、この小型古墳は植え込みだとばかり思っていました。また、どう見ても植え込みにしか見えないのです。 今は法隆寺参拝用の広大な駐車場の隅で、駐車場受付とトイレのすぐ目の前に何げなくあるのですが、これがなんと横穴式石室の古墳でした! 斑鳩町教育委員会と奈良大学が発掘調査をした結果、小型の円墳であることが確認され、出土物から6世紀後半の古墳だと考えられています。 墳形は円墳で、直径が8.5m、高さは1.5m、そして裾部分は後世の造作でしょうが、よくある植え込みと同じように30cmほど石垣で囲まれています。石室は長さ3.8m、幅1.6m、残存している高さは0.9mだそうで、幅1.2mと推定される羨道もある立派な横穴式石室だったのです。今は調査も終わり埋め戻されていますが、玉類・太刀・鉄鏃・馬具や須恵器に土師器が出土しています。 面白いのは古墳の封土内から飛鳥時代の軒丸瓦の破片が出土していることでしょう。古墳自体は西暦550年以降の築造だと推定されているので、600年代の飛鳥時代の瓦片が埋土に混ざりこんでいるのが不思議ではありますね。おそらく壊されたり修復されたりした痕跡でしょう。 ■藤ノ木古墳にまつわる謎 そして斑鳩町最大の謎の大型古墳といえば、何といっても藤ノ木古墳でしょう。直径約50m、二段築造の大型円墳で高さは10m弱あります。築造推定年代は6世紀の末期、つまり西暦500年代末期ですから、先ほど紹介した舟塚古墳の方がやや古いということになります。 1985年の調査で未盗掘古墳であることがわかり、石室内から大量の祭祀土器や副葬品が発見されました。くり抜き型の家形石棺には朱が塗られ、その後開封された石棺内からは驚くほど豪華な副葬品が大量に出てきました。 埋葬時から一度も開けられていないのですから、実に貴重な史料でもあるのです。もちろん1400年余りの時を経ていますので、さまざまな地震にも見舞われていますし石棺内には雨水が侵入して溜まってしましたので、副葬品は劣化していて鉄製品はさび付ついています。 とはいえ、黄金の輝きを放っている石棺内をファイバースコープで覗いた研究者たちからは大きなどよめきが起きました。完璧な未盗掘古墳だったのです。 そしてこの藤ノ木古墳最大のミステリーが、一つの家形石棺に男性が二体埋葬されていたことでしょう。わが国の古墳にはほとんどの場合墓誌などはありませんので、被葬者が判明することがまずありません。藤ノ木古墳もまたしかりで、誰と誰が埋葬されているのかなんてわかるわけがありません。しかしながら、これほど異常な状態の埋葬状況を知ると、なんとか被葬者とその埋葬事情を推理したくなるものです。 6世紀末期に二人同時に埋葬される大型円墳で、副葬品は大王級の豪華な工芸品ばかりです。この時代の天皇(大王)は、用明・崇峻・推古のお三方でしょう。同時代には蘇我氏は馬子・蝦夷、物部氏は守屋・贄子、皇子なら厩戸(聖徳太子)・穴穂部(あなほべ)・葛城・茨城・宅部などの各皇子でしょうか。 どうしても気にかかるのは、用明天皇が即位してすぐに病気で崩御したことにより、蘇我氏と物部氏が戦った西暦587年の丁未の乱(ていびのらん)周辺の大王位を奪い合う権力闘争でしょうね。 この時代は蘇我馬子の父親である稲目が、外戚となるために娘を二人、大王に入内させていたので、俗に蘇我腹といわれる皇子皇女が大勢いました。聖徳太子の父親の用明天皇も母親の間人(はしひと)皇后も異母兄妹でどちらも母親は稲目の娘でした。また穴穂部皇子は間人皇后とは実の姉弟です。 穴穂部皇子は大王位に就く野心が強く、さまざまな事件を起こしますので、馬子はこの皇子を即位させるつもりはなかったようです。そこで穴穂部皇子は蘇我腹皇子でありながら、敵対する物部守屋に接近して後ろ盾にしようと動いたようなのです。年齢はおそらく穴穂部皇子よりも上なのかと思いますが、宅部(やかべ)皇子がこれに賛同して動き回ります。 これに立腹した馬子は刺客を送って穴穂部皇子と宅部皇子を殺害してしまうのです。この事件をきっかけにして丁未の乱が開戦したといって良いでしょう。 という話があると、時代といい状況といい、異常な二人一緒の埋葬といい、被葬者はこの二人ではないかと思ってしまいますが、真相はわかりません。ただ、法隆寺の200mほど真西の藤ノ木古墳に誰と誰がどういう事情で埋葬されたのかは、同時代の聖徳太子はよく知っていたはずです。 にもかかわらず、聖徳太子は一文字もこの古墳についての真相を書き残していません。なぜなのでしょうか? もしかすると二人一緒に埋葬して供養をしたのは聖徳太子その人だったのかもしれません。穴穂部皇子は太子の叔父ですから、実の姉であり太子の母である間人皇女が暮らす斑鳩に古墳を造営したのかもしれませんね。 太子は真実を語ると叔父の不明を恥じることになり、蘇我一族の暗部をさらすと思ったのかもしれません。蘇我氏の皇子なら方墳であってもおかしくないのですが、蘇我を裏切った皇子なので円墳でカモフラージュしたのかもしれません……。 こうなると朝まで妄想話で盛り上がりそうになりますが、これも歴史遊びの楽しい所なのでご容赦ください(笑)。
柏木 宏之