クレーム殺到のNHK『歴史探偵』 SNSで“誤訳”と炎上し、訂正されたが…誤訳とは言い切れない文学史的な理由
11月に放送されたNHKの歴史教養番組『歴史探偵』の「宮沢賢治と銀河鉄道の夜」回。この放送では、賢治の詩『永訣の朝』の一説「あめゆじゅとてちてけんじゃ」を「あめゆき 取ってきて 賢治」と紹介したが、これについて「誤訳ではないか」とSNSで話題になった。「けんじゃ」は方言で「~してください」の意味であり、賢治本人がつけた注もそうなっているというのだ。クレームを受けてか、再放送では「あめゆきを取ってきてください」という訳に訂正された。しかし、「けんじゃ=賢治」は本当に“誤訳”なのだろうか? ■「賢治本人の注と違う!」とSNSで炎上 先日放送されたNHKのテレビ番組『歴史探偵』、「宮沢賢治と銀河鉄道の夜」の回をめぐり、炎上事件が起きました。 「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まる『永訣の朝』は、宮沢賢治の最愛の妹・トシの死を描き、賢治の代表詩集『春と修羅』の頂点というべき詩です。その中で4回も繰り返される「あめゆじゆとてちてけんじや」は、岩手県・花巻市の方言で、賢治本人がつけた原注では「あめゆきとつてきてください」となっています。しかし、番組では「雨雪を取ってきて、賢治」と“誤訳”したのが大問題だというのですね。 X(旧・Twitter)でも「けんじや」――現代風に書けば「けんじゃ」の語句の解釈をめぐって論争が起きました。宮沢賢治の研究書や解説書でも「けんじゃ」を「賢治兄さん」と解釈しているケースもあるとも指摘されましたが、結局は「作者」である宮沢賢治本人の注に従っていない『歴史探偵』の訳は誤訳だと考える人のほうが多かったようです。 実際、クレームを受けたのであろうNHKは、『歴史探偵』の再放送においては問題部分の解釈を賢治の注釈に寄せる形に変更しました。 しかし、この問題は、それで一件落着したといえるほどにはシンプルではなさそうです。 ■詩人・山本太郎が「賢治や」と解釈。賢治自身にも意図があった? いつから「けんじゃ」を「賢治兄さん」とする解釈が発生したのかを調べると、戦後に活動した東京生まれ、東京育ちの詩人・山本太郎(1925~1988)に行き着きます。 山本は宮沢賢治の大ファンで、昭和43年(1968年)に刊行された旺文社文庫版『宮沢賢治詩集』の編者も務めています。そして同書の解説で「けんじゃ」について「トシは兄のことを『けんじゃ』と呼んでいた」と断言したのでした。 東京生まれ、東京育ちで、旧制佐賀高校時代に人間魚雷にされそうになった詩人・山本太郎に岩手県との密接な接点はなさそうですから、賢治の妹・トシが、賢治のことを「けんじゃ」と呼んでいたという部分も、山本の独自解釈にすぎないようですね。そもそも男尊女卑の気風が強い東北地方の旧家で、いくら親しくても、長兄を軽々しく愛称で呼べるものかという指摘もあると思います。 しかし、とある岩手弁のスピーカーによると、標準語の「~してください」に相当するのは「~けじゃ」であって、「~けんじゃ」は普通の表現ではないようです。とくに気持ちがこもったときに、それが「~けんじゃ」に聞こえることもある程度なのだとか。 つまり本来なら「あめゆきとってきてけじや」と書くべき部分を、賢治はわざと「あめゆきとてちてけんじや」と書いたことが重要なのです。実際に瀕死のトシは息も絶え絶えだから、「あめゆきとってきてけじや」と告げたつもりで「あめゆきとてちてけんじや」と言っているように賢治には聞こえたのでしょう。 そして、妹の囁きの中に「けんじ」という自分の名前が含まれ、まるで自分が呼ばれているように感じたということが、『永訣の朝』で、「あめゆきとてちてけんじや」が4回も繰り返された根本的な理由ではないかと筆者は考えます。 ■オリジナル以上の意味に広がっていく名作の解釈 古来から日本人は和歌(短歌)でも、ある単語、ある表現について、表記で秘められた意味を付加してきました。たとえば「おもひ」と書くことは、「おもひ」=「思ひ」であり、同時に「ひ」=「火」も含んでいる表記だから、「燃えるような私の恋」という意味も付け加えられるのです。 ですから短歌も嗜んだ宮沢賢治が、表記でダブルミーニングするテクニック・掛詞(かけことば)を知らなかったはずがないのです。それゆえ「けんじや」に「賢治」という意味を見出した『歴史探偵』の最初の解釈も、文学的にいえば、間違いとはいえない……ような気がします。 詩人・山本太郎のように「けんじゃ」を「賢治の愛称」と断言するのはさすがに行き過ぎでしょうが、他地域の者には、謎めいた「あめゆきとてちてけんじや」のフレーズに「けんじ」の文字列が含まれているからこそ、『永訣の朝』の感動はより一層深く感じられていることも否定できないでしょう。このようにして「けんじゃ」=「賢治の愛称」説は、山本の交流があった詩人・会田綱雄などに受け継がれ、研究者の一部にも広がったようです。 有名な作品の一節が、オリジナルとは異なる意味まで持つようになるケースは珍しくはなく、たとえ「誤訳」「誤解釈」であっても、そのうち「解釈のひとつ」くらいの立ち位置に昇格することもありうるのです。今回の炎上事件は、個人的には文学の解釈の奥深さとおもしろさを考えさせられる一幕となりました。
堀江宏樹
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