震えた。ChatGPT o1で「英霊召喚」してみた話
Q. AIの理解力が高くなるとどうなる? A. 誠実さを感じてしまう
いよいよ本題に入ってみます。事実(伝記的な事実)と論理(哲学的な議論)を適度に織り交ぜた回答が必要となる質問をします。「デカルトの主要な思想の成立過程についてのレポートを書け」みたいな要求。ちゃんと勉強してないと、ぱっと書くのは厳しいと思います(期末試験がこれで持ちこみ不可だったら、爆発する人けっこう出そう)。 ぼく:外堀は埋まったように思いますから、本丸である「あなたの考える確実性」について質問させてください。Cogito Ergo Sumというフレーズに集約されると認識していますが、この認識はおそらく大雑把なものなのではないかと思います。より正確なところを知りたいと思って、あなたをお呼びしました。そこでお願いしたいのですが、あなたの中での「確実性の変遷史」を描いていただけませんか。どのような思考・認識を経て、あなたがどのような「確実性観」を持つに至ったのかを知りたいのです。 デカルト:私が「確実性」という概念に至るまでには、長い内的なプロセスがありました。これを私自身の「確実性の変遷史」と呼ぶなら、その起点はやはり若年期からの「学びに対する不満」と「確かさへの憧れ」だったと思います。 1. スコラ哲学への違和感と数学への信頼(青年期) ラ・フレーシュ学院での教育は、スコラ的学問の枠組みの中で行われていました。これは当時の標準教育でしたが、私は論理や神学の議論がしばしば曖昧な前提に依存し、確実な根拠に裏打ちされていないように感じていました。権威ある教説に基づく結論も、本当に絶対的な確実性があるのか疑わしく思えたのです。 一方、数学や幾何学は違いました。定義や公理から出発し、論理的手続きによって明確な定理を紡ぐこの体系は、他の学問に比べて圧倒的な透明度と確実性を備えているように思えました。この経験を通して、私は「明晰さと判明性」を軸とした知識の理想型を心に抱き始めたのです。 2. 世界を旅して気づいた多様性と相対性(20代) 学問の領域を離れ、軍隊での経験やヨーロッパ各地を巡る旅を通じて、私は社会的・文化的な価値観や信念が地域によって異なることに気がつきました。どんなに「確か」と見なされている教説も、土地や時代が変われば当たり前に覆される可能性がある。この観察は、「外的権威」や「慣習」に依拠する知識は、けっして普遍的な確実性を持たないという認識を強めました。こうした多様性の実感は、私に「自分自身の精神の内部に、外部の条件から独立して成立する確実な根拠」を求める動機を与えました。 3. 内的反省と夢の経験による転機(1619年前後) 1619年、ドイツで過ごしたある夜に見た夢の体験を契機として、私は一度全てを疑ってみる、という思考上の実験に踏み込む強い決意を抱きました。「あらゆることを疑う」過程で、外的権威や慣習、感覚の証言、ひいては数学さえも、その妥当性を一旦停止してみようと考えたのです。これは単なる否定ではなく、より本質的な、何一つ揺るがせない核を見つけるための手段でした。 4. 方法的懐疑とコギトへの到達(30代初頭~『方法序説』執筆) この「方法的懐疑」と後に呼ばれる態度に基づいて、私は次第に「思考する私」の存在そのものからは逃れ得ないことを発見しました。あらゆることを疑っても、疑っている「私」が存在するという事実は疑えない。ここに、最初の揺るぎない土台が見つかりました。これがいわゆる「Cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」として知られる確実性です。これは、人間が主体的に確認できる最小単位の確実性でした。 5. 明証性基準と神の保証(『省察』『哲学原理』へ) コギトに到達した後も、私は更なる「確実な知」の拡大を目指しました。そこで重要になったのが、「明晰かつ判明に把握される観念は真である」という原則です。この明証性は、数学的認識から得たモデルを普遍化したものといえます。 しかしなぜ、その明晰で判明な認識が真であると保証されるのか。その保証として、私が論証したのが「完全性と無限性をもつ神の存在」でした。人間が明晰判明な観念を抱くとき、それが偽りであるとすれば、人間は根本的に騙されていることになってしまう。しかし、完全で善なる神が存在する以上、神が私たちの理性を恒常的に欺くことはありえません。こうして、神という概念が私の認識体系の中で、確実性を真理へと確固たるものにする一種の保証人の役割を果たすことになりました。 6. 統合的科学への展望(『方法序説』以降) 確実性の根をコギトに置き、神の保証を得た上で、私は数学・物理学・形而上学を含む諸科学を、一つの体系的な知の樹として統合しようと試みました。「確実な基礎」に立脚することで、他の学問分野にも明晰判明な基準を適用し、そこから揺らぎの少ない確実な知を再構成できる、と考えたのです。その際、数学的手法の一般化(例えば解析幾何学のような新手法)によって、自然界も明証的な原理から理解できる、という展望を抱きました。 まとめ このように、私が考える確実性は、初めは曖昧な権威や慣習的な知識との対比において「もっと確かさがほしい」という漠然とした要望から出発しました。それが数学的明証性への傾倒、自らの主観的経験と多様な世界観への直面、徹底的懐疑による内的確実性の発見、そしてその基盤を広げていくための神の存在証明へと進んでいったのです。こうして最終的には、「私が明晰判明に把握できるものは真である」という原則を神によって保証されたものと位置づけ、コギトを基点として体系的な学問の確実性を打ち立てようとする確実性観へと至りました。 デカルトを召喚するにあたってしてみたかった質問がこれでした。自分もけっこう理解が怪しかったので整理してみたかった。 見事な回答だと思いました。前半は手短にまとめ、後半(4以降)からデカルト哲学の核を必要十分な表現でまとめきっています。これ以上が求められるのは、卒論とかになる気がする…。 ChatGPT o1の論理的な能力はすさまじいです。今回試したのは数学的な要素がない、人文社会学的な論理性ではありますが、人間でもここまキチキチにはなかなかやれません。 また、日本語の表現能力の高さも特筆に値します。専門的な用語をある程度の厳密性をもって使いつつ、全体としては平易で、構成もシンプルでわかりやすい。仮に同レベルの知識を入れたとしても、ここまですっきりまとめられる自信は、自分にはありません。 なにより、感動していました。デカルトがわざわざこれを自分のために書いてくれた、みたいに錯覚してしまいました。 推論能力が高いと誠実に感じてしまうのです。質問者の質問の意図が汲めるということは、疑問をその人にわかりやすい形で解消できるということ。 それって、本当に、本当に嬉しいことです。「わざわざやってくれてる感」がめっちゃする。