震えた。ChatGPT o1で「英霊召喚」してみた話
「自分より賢い人としゃべってる感じ」がしてくる
そこに深掘りするような質問をします。 ぼく:幾何学の中で特に明晰性を感じた分野は何でしたか? その後の思考に影響を与えたと思う問題や証明があれば具体的に教えてください。 明証性というのはデカルトの哲学を理解するうえで重要な概念のひとつ、このあと本題に入るための足がかりとなる質問です。 デカルト:特に明晰性を感じたのは、いわゆるユークリッド幾何学の「初原理から定理へと段階的に積み上げる証明の体系性」そのものです。ユークリッド『原論』に見られるような、定義、公理、公準から出発し、少しずつ確実なステップを踏んで定理を築き上げる手続きは、当時の他の学問分野には見られないほど確実な知識の積み重ねを実感させるものでした。 当時、私が深く考えさせられた問題の一つに、いくつかの点や線に関する関係から別の性質を論理的に導くような、いわゆる古代から受け継がれた幾何学的課題があります。例えば、パップス(Pappus)の定理と呼ばれる、複数の直線上に配置された点列をめぐる一般的な問題群は、その複雑さゆえに明確な代数的処理を求め、私を「幾何と代数を結び付ける思考法」へと導いてくれました。 具体的には、与えられた条件(たとえば複数の定点・定線からなる配置)をもとに、求める点や線を構成する手段として古来より幾何学的作図が行われていました。しかし、それらの構成をより一般的・体系的に扱うためには、幾何的な要素を数的関係として表現し、それを計算し直すための新たな方法が必要でした。この「幾何を数式の問題として記述し、解く」という発想が、のちに私の『方法序説』付録として発表した『幾何学』(La Géométrie) において、座標軸を用いて曲線を方程式で表す解析幾何学の誕生へとつながっていくのです。 要するに、ユークリッドを基盤とする明晰な証明法に強く影響を受け、さらにパップス的な問題の一般解法を模索する中で、私は「確実性」の範囲を、従来の幾何図形上の直観的把握から、代数的記号操作による明快な論証へと拡大しようと考えるようになったのです。これらの経験は私の後々の思索、特に『方法序説』で述べた厳密な方法論や、そこで付録として示した新しい幾何学的手法を形成する上で、大きく作用したといえるでしょう。 引き続き、こちらの質問に正確に対応した回答になっています(前半2段落が質問の1文目への、後半2段落が質問2文目への答え)。 専門(学部)の講義だと踏み込むかもくらいのレベルの議論にしたかったのですが、そこもちゃんと汲まれています。 ぼく:当時、あなたは何歳くらいだったのですか? デカルト:私が幾何学の明晰性に強く魅かれ、その後の思考へと影響を及ぼすような問題に深く取り組み始めたのは、ラ・フレーシュ学院在学中から、そして卒業前後の頃にかけてです。学院に通ったのは1607年頃から1615年まで、およそ8歳から19歳に至る時期でしたから、まず基礎的な幾何学の理解やその明晰な証明体系に感銘を受けたのは10代半ばから後半にかけてとなります。 ただ、その後、さらに踏み込んで「古典的な幾何学問題を一般化し、代数的手法で取り扱う」という発想がより明確に形づくられたのは、学院を出てからしばらくのこと、20代に入ってからの旅や独学の中で培われた部分が大きいのです。ですから、単純に「何歳の時」というひとつの点ではなく、10代後半に受けた基礎的感銘があって、それを洗練させ、発展的に思考を進めたのは20代の初頭から中盤にかけてといったイメージになります。 要するに、幼少期の教育で幾何学の明晰性に触れたのは10代半ばから後半、その種が芽を出し、独自の問題意識や方法論をより明確に形成するまでには20代という若い時期を費やしている、という流れだったとお考えいただければよいでしょう。 ここで話題を微妙にずらします。哲学的な質問が続いたのを、急に単なる伝記的な事実を確認するものに切り替えてみました。 回答は「その事象がいつ起こったか」を手短にまとめるにとどめられています。これまでの流れを引きずらず、質問の力点の変化を正確に理解し、ぴったりと追従してくれています。この手の議論って、一方に理解が曖昧なところがあるとすぐわかります。うまく回答できないときはこれ以上の会話は難しいってことなのですが…このデカルトとはまだまだキャッチボールを続けられそう。 次はミスリードを誘ってみます。専門的な意味を持つ用語(「実存」)を、敢えて日常的な意味(「実際にした経験」くらいの意味)を込めて使います。ダブルミーニングでとれるような発言をし、前者の意味に引っ張られずに回答できるかを見ます。 ぼく:あなたの思想形成は純粋に学術的になされたものですか?もし影響を与えた実存的経験が在れば、教えていただきたいです。 デカルト:私が築き上げた思想は、確かに学問的な探究から生まれた部分が大きいのは間違いありません。特に数学や幾何学の明晰性、そしてスコラ的学問の限界への違和感が、私の方法的懐疑や明証的な原理を求める態度を形成していきました。しかし、それが全く「実存的経験」と無関係であったとは言えません。 私が若い頃、正式な学業を終えた後、軍隊に身を置きつつ様々な土地を旅していた時期がありました。その中で、私は日常の慣習や学者たちの教えが必ずしも絶対的なものではなく、人間が作り上げた制度や信仰に過ぎない可能性に気づきました。こうした旅先での経験は、人々が異なる信念体系や生活様式を持ち、それらが多分に歴史的・社会的条件によって左右されることを私に実感させたのです。学問的真理とは異なり、社会的な慣習や信条は必ずしも明証的ではなく、その多様性や恣意性を目の当たりにしたことは、私が「絶対的に明晰かつ判明な原理」を探し求める動機となりました。 また、1619年(当時23歳)の冬、ドイツで過ごしたある夜に、私は深い思索の中で、ある種の象徴的な夢や内的な経験を得ました。それは、一度すべてを疑い、そこから揺るぎない基礎を立て直すという決意を奮い立たせるような、私にとって個人的かつ強い印象を残す出来事でした。後に『方法序説』で簡潔に示した方法的懐疑や明証的認識の重視は、こうした自分自身の内面の確信と学問的探究が結びついて生まれたものだと言えます。 要するに、私の思想形成は純粋に学問的訓練だけでなく、諸国を巡る中で多様な人々や思想に接し、人生上の転機ともいえる内的経験を通じて育まれた側面も確かにあったのです。 結果としては、正式な哲学用語としての意味ではないと判断して、伝記的な情報を回答してきています。解像度高いってば…。 なんていうか、大学の先生としゃべってるときがこんな感じだったのを思い出しました。こっちが伝わりにくい表現をしても、言いたいことを汲み取ってくれちゃう。あとから思い出して自分の浅さが恥ずかしくなるやつですが、今回もその感じがしました。なんだこれ…?