「本当に大学1年生なんですよね?」入学直後に研究室で見た「植物のような動物」の正体
私たちはなぜ眠り、起きるのか? 長い間、生物は「脳を休めるために眠る」と考えられてきたが、本当なのだろうか。 【写真】考えたことがない、「脳がなくても眠る」という衝撃の事実…! 「脳をもたない生物ヒドラも眠る」という新発見で世界を驚かせた気鋭の研究者がはなつ極上のサイエンスミステリー『睡眠の起源』では、自身の経験と睡眠の生物学史を交えながら「睡眠と意識の謎」に迫っている。 (*本記事は金谷啓之『睡眠の起源』から抜粋・再編集したものです)
植物のような動物
高校時代には研究に熱中して、受験勉強を始めるのが遅すぎた。学習塾にも通うこともなく、学校の勉強の時間も惜しんで、研究をしていたのだ。 高校3年生になって、担任だった児玉伊智郎先生から「そろそろ研究でなく、勉強した方がいいぞ」と諭され、ようやく受験勉強をはじめた。しかし大学受験は、試験前の一夜漬けのような勉強では、なかなか難しい。今となれば、もう少し真面目に勉強していればよかったと思っている。 それでも慣れない勉強を頑張って、なんとか九州大学の理学部生物学科に入学することができた。大学でも生物学を研究するかは、かなり迷っていた。高校生までの知識や、当時の環境で研究をするには、生物学がちょうどよかったのだが、大学に入学してからはもっと幅広い分野を勉強してみたいという思いがあった。そんな考えから、児玉先生に不思議がられながらも、高校では選択科目で生物ではなく、物理と化学を選択していた。 それでもやはり、大学の出願先を決める際には、これまでのクロアゲハやプラナリアの研究の記憶が蘇ってきた。生き物たちの織りなす現象を解明する──私自身が、最も興味をもち、夢中になれることだ。生物学という学問自体も、これから新しい技術が取り入れられ、ますます発展するだろう。大学で、より本格的に生物の研究をしようと決意した。 退屈していた受験勉強からも解放されて、ようやく好きなように研究ができる。私は、期待に満ち溢れていた。大学4年生で行う卒業研究までは待ってはいられないと、児玉先生に相談をして、九州大学で生物学を研究している先生を紹介してもらうことになった。 紹介していただいた先生からメールが届き、入学式の数日後には、研究室へ伺うことになった。4月なのに、まるで梅雨の終わりのような大雨が降っていて、研究棟にたどり着くまでに足元はびしょ濡れになっていた。傘をたたんで建物に入り、階段を昇る。長い廊下を進んでいくと、メールに記載されていた番号の部屋を見つけた。ひと呼吸おいてから、恐る恐るノックをしてみる。ドアがゆっくりと開き、優しそうな笑顔を浮かべた初老の男性が、部屋のなかへ招き入れてくれた。九州大学で生物学を教えていた小早川義尚先生だ。 部屋に入ると、もの珍しそうに「本当に大学1年生なんですよね?」と訊かれた。少し雑談をしてから、ぜひ研究室で研究したいと話したところ、もし興味があるのなら自由に研究してよいということだった。「うちの研究室には、たくさんヒドラがいるから、観察するだけでも楽しいと思いますよ」。彼は笑顔で、そうつけ加えた。 小早川先生は、同じフロアにある実験スペースを案内してくれた。最初に案内されたのは、「生物飼育室」という名の部屋だった。やや広めのリビングルームくらいの広さだろうか。細長くて奥行きのある部屋の両脇には、黒い天板の実験台が備え付けられている。部屋には窓があるが、外の光が入ってこないようにブラインドカーテンが取りつけられ、薄暗い。実験台の前には黒い丸椅子が並んでいて、部屋の奥側には、生物サンプルを保管するための大きなインキュベーターがある。 小早川先生が、インキュベーターの扉を開くと、中にはグラスよりもやや小さなビーカーがたくさん並んでいた。彼は、そのうちの一つを取り上げると、私に見せてくれた。ビーカーの側面や底面には、小さな糸状の物体がたくさん付着している。長さは一センチメートルにも満たないほどだ。ビーカーを動かすと、水の動きにまかせて一緒に揺れ動く。いくつかは、水面に浮かんで漂っていた。 彼は汲み置きしてあった水を、プラスチック製のシャーレに注いだ。スポイトを使って器用に、その物体をビーカーの中から吸い上げ、丁寧にシャーレへ移した。シャーレを、実験台の上に置かれていた実体顕微境と呼ばれる顕微鏡のステージに置く。そして、顕微鏡のライトのスイッチを入れ、接眼レンズを覗きながらピントを合わせていった。 彼に促されて、私も顕微境のレンズを覗いてみると、ある生き物の姿が見えた。細長い筒のような胴体に、7~8本ほどの細い触手をつけている。植物なのか、動物なのか、すぐには見分けがつかない。 じっくり観察していると、それが植物ではないことに気がつく。胴体の部分が、伸びたり縮んだりするのだ。胴体を長く伸ばしてリラックスしているかと思えば、何かの拍子に縮こまって、まるでボールのように丸まる。触手がついているのとは反対側、つまり足にあたる部分からは、粘液のようなものを分泌しているのだろうか。シャーレの底面にくっついて、離れなくなるようだ。すると今度は、くっついた部分──足の部分を基点に、触手をたなびかせながら胴体をダイナミックに動かす。 それは、植物などではない。体を自在に動かす「動物」だ。 小早川先生が研究していたのは、ヒドラと呼ばれる生き物である。0.5~1センチメートルほどの体の大きさで、刺胞動物に分類される。れっきとした動物なのだ。刺胞動物の仲間には、クラゲやイソギンチャク、サンゴなどがいる。刺胞動物たちは海に棲んでいるものがほとんどだが、ヒドラはめずらしく淡水に棲んでいて、日本を含め、世界各地の池や水路などに生息している。 「刺胞動物」と呼ばれるゆえんは、彼らの体にある刺胞と呼ばれる針のような構造だ。夏に海水浴場にあらわれてやっかいなクラゲたちがもつ毒針も、刺胞である。ヒドラの触手には刺胞が密に存在し、餌を捕まえるのに役立っている。 ヒドラは、自然界ではミジンコなどの小さな生き物を捕まえて食べているらしい。実験室では、アルテミアと呼ばれる甲殻類の仲間(ブラインシュリンプと呼ばれることもある)の幼生を与える。 乾燥したアルテミアの卵を、海水と同じ塩分濃度の水のなかで孵化させ、真水で洗った後、スポイトで少し吸ってヒドラに与える。水の中を泳ぎ回るアルテミアが、ヒドラの触手に触れると、動きが止まる。ヒドラの触手にある刺胞は、外から物理的な刺激が加わると、勢いよく針が発射されるしくみになっているのだ。 針は、顕微鏡を使ってようやく見えるほど小さく、人間にとってはまったく無害なものであるが、アルテミアにとっては大きな脅威となるようだ。触手に触れたアルテミアが息絶えて動かなくなると、ヒドラの触手がみるみるうちに丸まって、アルテミアが触手の付け根まで運ばれる。すると、それまで目立たなかった口が開き、胴体の中へ取り込むのだ。 私は、あまりに不思議な生物・ヒドラに、釘付けになった。 つづく「1400年以上生き続ける「不老不死の生物」をご存知ですか?」では、世界中の生物学者たちを魅了してきた、不死身の怪物・ヒドラの正体について掘り下げて語っていく。
金谷 啓之