「クリエイティブってなんだべ」の初プレゼン。感涙の『気仙沼漁師カレンダー』第1作が完成!
『気仙沼漁師カレンダー』の10年以上にもわたるプロジェクトの歩みを描いたノンフィクション『海と生きる 「気仙沼つばき会」と「気仙沼漁師カレンダー」の10年』(著者:唐澤和也)が発売になりました。地元を愛する女性たちだけの会「気仙沼つばき会」さんの「街の宝である漁師を世界に発信したい!」という強い想いから始まった、このカレンダー制作の舞台裏と歴史を多数の証言で綴る一冊。 【画像】全10作のはじまりとなる「気仙沼漁師カレンダー2014」の表紙 今回は、本書の「1章」後半を一部抜粋・再構成してお届けする。
2012年、震災の爪痕が残る中で撮影はスタート
けれど、その前途は多難であった。 まず、予算が足りない。広告制作会社であるサン・アドを主語とするのなら、通常の予算からすると圧倒的に足りなかった。 だが、クライアントである「気仙沼つばき会」を主語とするのなら、家も仕事もすべてを津波で流されていたわけで、潤沢な予算などあるはずもない。 プロデューサーの坂東美和子は発想を転換する。 通常の撮影プロジェクトであれば、キャスティングに必ず組み込む「コーディネイター」「ロケバスとドライバー」「スタイリスト」「ヘア&メイク」を座組みから外す。 撮影場所の候補地やモデルを紹介しナビゲートする「コーディネイター」は、この地で生まれ育った「気仙沼つばき会」に担当してもらった。 むしろ、彼女たち以上の「コーディネイター」など、このプロジェクトには存在しなかった。移動に必要な「ロケバスとドライバー」も「気仙沼つばき会」の誰かが車を出してくれたし、撮影チームは藤井保のアシスタントがワーゲンバスを自走してくれた。 漁師という味のある被写体だ。「スタイリスト」「ヘア&メイク」も必要ない。 予算のめどはたったが、〝ないもの問題〟は続いていく。 ロケハンのために気仙沼へ赴いた時のことだ。通信電波がない。携帯電話は通じるところとそうでないところが点在していた。いまのようにWi-Fiもないから、インターネットが使えない。 パソコンはノートブックタイプを持ち込めばよかったが、宿泊施設などにプリンターがない。津波で流されたからだ。 「香盤 ( こうばん ) 表」と呼ばれる撮影予定表は、通常はパソコンで入力してプリントアウトしたものを各スタッフに手渡すのだが、今回はすべてが手書きとなる。 ないないづくしだからこそ、試されるのは本当の自分の力だった。だったら、できることをしよう。 新人の頃のように、がむしゃらに、全力で。坂東は既に充分なキャリアを重ねており、会社の重要案件を任されるほどのベテランであった。そんな自分が新人の頃のように初心に返り、それを楽しめているのが不思議だった。 不思議なことがもうひとつ。 それは、「気仙沼つばき会」と、その家族や仲間たちから感じることだった。 あれほどのことがあったのに、みんなが笑っている。 東京での坂東は「声が大きい!」と、たしなめられることがよくあったが、気仙沼では静かなほうだった。 彼女以上に、みんなが大きな声でしゃべり、大きな笑顔で笑う気仙沼の人たち。深く傷ついたはずなのに、なぜこんなにもパワフルなのだろうと不思議だった。 気仙沼から東京に戻ると元気になっている自分の変化にも気づく。苦手なはずのサンマの肝が、気仙沼の人たちが七輪で焼いてくれたものだけはおいしかったなと思い出すと少し口元がゆるむのだった。 気仙沼と東京は、電車の乗り継ぎがうまくいっても最短で3時間25分。決して近くはない。 距離ではなく坂東の意識として、気仙沼という町が以前よりもぐっと近づいていた。 坂東には、いまでも忘れられない光景がある。 アシスタントプロデューサーの荒木拓也が、「気仙沼つばき会」の斉藤和枝とその家族となにげない会話を交わしていた時のこと。いつものように、みんなが大きな声でしゃべり、笑っていた。ふとしたタイミングで大学生当時の記憶が蘇ったのか、荒木がこんなことを言った。 「そういえば僕、このあたりには何回かボランティアで来たことがあります。あの頃は、サンマが散らばっていて大変でしたよね」 その瞬間だった。笑い声が一瞬で消える。それと同時に、斉藤だけでなく家族全員が居住まいを正した。正座をした斉藤家一同は、荒木に向かって深々と頭を垂れるとこう言った。 「その節は本当にありがとうございました。ボランティアの方々が来てくださらなかったら、こんなに早く気仙沼で、いまのように暮らせるようにはなりませんでした」 斉藤は、その時はじめて荒木がボランティアで気仙沼に来てくれていたことを知ったのだ。 坂東は斉藤家の誠実な姿に、こみ上げるものをこらえて、ふたたび決意する。私にできることをしよう。新人の頃のように、がむしゃらに、全力で。そして、世界に届くカレンダーをこの人たちといっしょに作っていこう。 撮影の日々は始まっていた。2012年の冬のことである。 撮影日の詳細な記録は残っていない。通常はパソコンに香盤表のデータが残っているものだが、現地で手書きしコピーして渡していたからだ。怒涛の日々とともに手書きの香盤表はどこかへ消えてしまった。 記録には残っていないが、坂東の記憶には残っている。 都合2度。サン・アドチーム4人と写真家・藤井保による『気仙沼漁師カレンダー』のクリエイティブチームは、気仙沼の四季を撮影しようと、東京からの旅を7度繰り返した。